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新しい天と地の創造

新しい天と地の創造
大坪章美牧師

ルカによる福音書12章35〜48節

今日お読み頂きましたイザヤ書65章は、第三イザヤが著わしたもので、その著作の年代は、紀元前530年頃から510年頃と、推定されています。13節から14節にかけて、主なる神様は、「ご自分の僕たち」と、「お前たちユダヤ人」との、これから後の姿が記され、神の決意が著されています。すなわち、「僕たち」は、“喜び”に、「お前たちユダヤ人」は、“泣き、叫び”に、至るというのです。背信のお前たちユダヤ人には、飢え、渇き、恥が与えられ、逆に、神の僕たちは、食べ、飲み、喜ぶ、と、宣告されました。

ここまでの第三イザヤの預言は、「神に逆らうユダヤ人、背信の人々」と「神に忠実な僕」との対比について、また、両者の将来について述べられていました。主なる神様は、「見よ、新しい天と、新しい地を創造する」と宣言されました。「天と地」と呼んでいる世界が、驚くべきことに、“新しくされる”、と仰るのです。ですから、もはや、「初めからの苦しみは忘れられ、わたしの目から隠される」と仰るのです。

第三イザヤが預言した時から、550年程も経った頃の事、イエス様は、ガリラヤでの伝道を終えられて、ご自分が天に上げられる時期が近いと判断された時、都エルサレムへ向かう決意を固められました。イエス様は、ご自分が再び来られる時、即ち、再臨、終末の時に備えての生き方について、教えておられました。

ルカによる福音書12:33節でも、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れる事の無い財布を作り、尽きる事の無い富を、天に積みなさい」と教えられました。「喜んで施す」という行いによって、「天に、富が蓄えられる」のです。天に宝を積む人の心は、富に縛られる事もなく、富からは自由な状態ですから、主イエスが再び来られる時への備えが出来ています。

イエス様は、ここ12:35以下で、ご自分が再び来られる時に備えて、「常に目を覚まして、待たなければならない」事を、勧めて下さっています。そして、この戒めを、四つの譬えによって、話されました。

一つ目の譬えは、「夜、火を灯し、目覚めていて、腰に帯して、主人の帰りを待つ僕たち」の譬えです。二つ目の譬えは、「盗人に警戒する主人」の譬えです。盗人や、泥棒の侵入に気が付くように、いつも備えていて初めて、家は安全です。三つ目の譬えは、「忠実な僕と、不忠実な僕」の譬えが語られています。主人が、どんなに長い日数を留守にしていても、自らの義務を放棄する事なく、自分に任された召使い達に、毎日の食事を適切に分配していました。イエス様は、このような僕をご自分の代理人にするように望まれるのです。

そして、四つ目、最後の譬えは、「鞭打たれる者」の譬えが語られています。主の再臨の時の裁きは、全ての人々に向けられますが、まず、主人の思いを知っていながら何の準備も、用意もせずに、主人の意思に従って行動しなかった、あの僕は、ひどく鞭打たれる事でしょう。然し、主人の思いを知らなかった僕への罰は、それ程ひどく打たれることはありません。弟子たちや、教会の指導者たちの「幸い」も、また、「災い」も、それだけ大きくなるのです。全て、多く与えられている者からは、多く求められるでしょう。また、多く任せられている者からは、多く要求されるでしょう。

それならば、「自分は少なく求められる方だ」と、考える人があるかも知れません。然しそれは間違った考えです。今、福音を耳にしている事自体が、大きな恵みだからです。私達は皆、主イエスを知らない人々から見たならば、はるかに多くを与えられているのです。

ですから、多くを求められるならば喜ばしい事です。何故なら、その人は多くを与えられているからです。

ここで、私達は、一つ目の譬えの僕を思い出します。主人が、いつ、いかなる時に帰って来ても、直ちに出迎える支度をしている僕の事です。その僕は、イエス様によって、神の国の食卓に招かれる「幸い」を受けます。この僕の上にこそ、かつて第三イザヤが語ったイザヤ書65:17節の預言、「見よ、わたしは新しい天と、新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない」という御言葉が、成就する時なのです。

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