過去の説教

苦しみの時、主の憐れみ

苦しみの時、主の憐れみ
大坪章美牧師

ヘブライ人への手紙 11 章 35 節〜 12 章 1 節

旧約聖書で、ヨシュア記の次に納められている書物が士師記です。“士師”という言葉は、2:16節に出て参ります。そこには、「主は、士師たちを立てて、彼らを、略奪者の手から救い出された」と記されています。

そして10:16節には、「主は、イスラエルの苦しみが、耐えられなくなった」と、記されています。もともと神様は、イスラエルの民を愛し、慈しんでおられたのに、イスラエルの民の方から、神様を裏切っていたのです。イスラエルの民が苦しんだとしても、それは自業自得とも言える事です。然し神様は、そのようには考えられません。神様は、「イスラエルの苦しみを、見るに忍びなくなった」と記されています。神様は、イスラエルの“裏切り”には忍耐されますが、“苦しみ”には、耐えられないのです。イスラエルの苦しみも、私達の苦しみも、神様は、自分自身のこととして共有して下さり、耐えられない思いに、なられるのです。

このように、「わたし達人間の苦しみの時に、主が憐れんでくださる」ことを、新約の時代になって、ヘブライ人の手紙の著者も語っています。著者は、11章で、「信仰によって生きた、先人」について語っています。
信仰の英雄達は、拷問にかけられても、“父なる神”への信仰を貫き通す事によって、「死、そのものを克服しての復活を信じて、忍耐した」ことを指しています。

数々の事例に挙げられた、唯一の神、ヤハウェを信仰する者は、最後の拠り所を、天に持っています。ですから、「この世は、彼らにふさわしくなかったのです」と、著者は、記しているのです。この世は、彼ら、敬虔な人々を迫害しました。しかし、敬虔な者たちは、この様に、耐える力を、“信仰”からのみ、くみ取ったのです。神の救いの約束と、“その報酬に対する確信”という、希望を持っていたからです。

11:39節には、「ところで、この人たちは全て、その信仰の故に、神に認められながらも、“約束されたもの”を、手に入れませんでした」と、記されています。“約束されたもの”とは、「信仰者たちに約束された“救い”」の事で、“キリストの到来”によって初めて明らかになったものです。ですから、旧約時代に現れた“信仰の英雄”たちは、神に賞賛されながらも、「神が約束されたもの」は、手に入れることが出来ませんでした。

わたし達には、疑問が湧いてきます。「あの、数えきれない程の、旧約時代の信仰の英雄たちが、自らの死をもって“信仰”を表わした英雄たちが、何故“救いの約束”にあずかれないのか」と、疑問に思うのです。

しかし、それは、主なる神様の、わたしたちに対する、恵み深い意図があったからでした。“救いの約束の成就”、すなわち、“イエス・キリストの誕生”が、もっと早かったら、旧約時代の信仰の英雄たちは“約束された救い”を手にしていたのかも知れません。しかし、その場合、その後に生まれた者たちは、その救いの約束に与ることが出来ないことになります。神様は、そのようなことを望まれなかったのです。

そして12:1節で、著者は読者たちに檄を飛ばしました。「こういう訳で、わたしたちもまた、このように夥しい証人の群れに囲まれている以上、全ての罪や、絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を、忍耐強く、走り抜こうではありませんか」と、記しています。彼ら、信仰の英雄たちが、新約の時代の私たちキリスト者を、教え導くのです。このような証人たちが観客席で見下ろしている中を、わたしたちキリスト者は、信仰のコースを走り抜かなければならないのです。そのためには、「すべての重荷や、絡みつく罪をかなぐり捨てて」、身を軽くしなければなりません。「忍耐強く走り抜こうではありませんか」と記していますのは、信仰の歩みを、命の終わりの瞬間まで、続けなければならない、ということを示しています。

こうして、旧約の、信仰の英雄たちの見守る中、その支えによって、わたし達は今、競技場のコースを走っているのです。そして、わたし達が、自分が与えられた信仰のコースを走る時、主なる神様は、わたし達の苦しみに耐えられなくなられて、わたし達に力を与えて下さり、信仰のゴールへと、導いて下さるのです。

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