過去の説教

人間の力より、神の力

人間の力より、神の力
大坪章美牧師

コリントの信徒への手紙一 1章6〜2章5節

エレミヤ書8:9節には、イスラエルの民に対するエレミヤの言葉が記されています。「賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っていると言うのか」と糾弾しています。エレミヤは、律法の枝葉末節にこだわる律法主義者たち、賢者を自認している人々の中に、自らを縛り、自縄自縛に陥って、・・・結局は、破滅への道を歩む、生き方を見ています。まさに、「主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っているのか」と、エレミヤが非難するように、主の言葉、即ち、神と民との人格的な関係に基礎づけられた、ヤハウェの生きた言葉、アブラハムに始まり、シナイ山で与えられた神と民との契約こそ、唯一の信仰の源であって、唯一の救いの保証なのです。この正真正銘の、主の言葉を侮る律法主義者たちが、一体、外に、どんな知恵を持っているのか、とエレミヤは、糾弾しているのです。

エレミヤが語った「人の知恵より、神の力」という真理について、キリストの使徒、パウロが手紙に書いています。それが、コリントの信徒への手紙一です。

1:26節で、パウロは、「兄弟たち」と、呼びかけています。そして、「あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい」と、勧めています。「あなたがたは、一体、どんな長所を持っていたから、神に選ばれて、福音を信じるようになったのですか」と、尋ねているのです。神様は、「知恵ある者」、「力ある者」、「地位ある者」を、あえて選ばれませんでした。

これらの、神の選びの法則は、神様の目的に合致しています。29節に記されています。「それは、誰一人、神の前で、誇ることが無いようにするためです」と言っています。「神に造られた肉の存在である人間が、誰一人、神の選びを受ける資格を持っている」などという、誤った誇りを持つことが無いようにするためなのだ、と言っています。“誇り”と言いますのは、神を拒絶する人間特有の、“罪の根源”なのです。

そして、キリストの前に、「知恵も、力も、知恵も無い」わたし達が、誇るべきことがある、と、パウロは言います、31節です。「誇る者は、主を誇れ」と、勧めています。キリストの十字架を信じる者は、自分を誇ることを、完全に葬り去ります。たとえ、自分自身に起きる事でも、キリストにある、神の行為と、見なします。“主を誇る”ということは、「主にあって、勝ち誇る」ということを意味しています。そして、“主を喜ぶこと”こそ、わたしたちの“生きる力”なのです。

パウロは、2:3節で、最初にコリントを訪れた時の状況を回想しています。その時は、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と、述懐しています。パウロは、伝道すべき目的地に入った時にも、自信に溢れていたのではなくて、弱さ以外の何も持っていませんでした。然し、この、“弱さ”こそが、大切であったのです。自分自身の“弱さ”を自覚しながら、敢えて、福音を述べ伝えることが出来たのは、「知恵に溢れた言葉によらず、“霊”と、力の証明によるものでした」と、言っています。パウロが、“弱さ”の中にあったからこそ、人間の熟練や、思想ではなくて、「神の霊と力」が働いたことが、明らかにされたのでした。

パウロが求めたのは、唯一、「コリントの人々が、信じる者となる事」でした。コリントの人々が信仰を得る為には、「神の力」が必要でした。信仰は、人間の知恵を土台とするものではありません。そして、「十字架の説教」の中にのみ、“神の霊と力」とが、働くのです。

突き詰めて申しますと、信仰を得るためには、“人間の知恵”と、“神の力”と、どちらを必要とするか、の問題なのです。答えは明らかです。コリントの人々も、パウロを通して語られた「十字架のキリスト」によって、“神の力”が働いた結果、信仰を持ったのでした。

茲で、私達はエレミヤの言葉を思い浮かべます。「見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っていると言うのか」と語りました。自らの知恵に頼り、主の言葉を軽んじる者に、救いはありません。パウロがコリントの信徒達に語ったのは、“人間の知恵”の言葉ではなく、“十字架のキリスト”のみであったのです。

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