過去の説教

恐れを克服する希望

恐れを克服する希望
大坪章美牧師

ペトロの手紙一 3章8-15節

イザヤ書51:12節で、主なる神様は言われました。「私、私こそ神、あなた達を慰めるもの。なぜあなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を」と、語り掛けて下さいました。その頃、ペルシャのキュロス王が、捕囚民の解放の勅令を出した事に依りまして、バビロン捕囚のユダヤ人も、故郷ユダへ帰ることが許されたのですが、喜び勇んで帰ろうとする者が居た半面、もう5〜60年もの間、バビロンで生活している内に、そこそこの生活の基盤を築いたユダヤ人もおりました。今更、ユダに帰って、一から出直すよりも、バビロンに残って、そこそこの生活をする方を選ぶ人々も少なくなかったのです。彼らは自分達の身の安全を図る為、一人でも多く残る者を増やそうとして、ユダへ帰ろうとする者を、脅したり宥めたりしたものと思われます。いろいろな手を使って、帰国させまいとする残留組の脅しに乗ってはならない、と警告しています。「あなた方を引き留めようと躍起になっている人々は、やがて、死ぬべき人々であり、草にも等しい存在ではないか。彼らの言葉に耳を傾ける事なく、わたしの言葉に従いなさい」と、勧めています。

新約聖書の中にも、「人々を恐れる事への警告」が記されている手紙があります。それはペトロの手紙一で、手紙が書かれたのは、紀元60年代の半ば頃でした。

今日お読み頂きました3:8節は、「終わりに」という言葉で始まっていますが、茲は、これ迄2:18節から語られてきた、“さまざまな服従”というテーマの、結びにあたる個所だからです。2:13節に始まる“服従”に関するテーマでは、まず「人間が立てた政治的な制度には従いなさい」と勧めています。統治する者が皇帝であろうと、総督であろうと、服従するように勧めています。ペトロは、「善を行って、愚かな者達の発言を封じる事が神の御心である」と記しています。

3:1節には、妻と夫の関係を記しています。具体的には、妻に対して、夫への服従を説いています。そして、茲で考えられているのは、妻がキリスト教徒であって、夫が、異教徒である場合が想定されています。

妻がキリスト者で、夫が異教徒の場合、妻には何ができるのでしょうか。茲では、「み言葉」と、「無言」とが対比されています。即ち、キリスト教徒の妻の側からは、「言葉」では、殆ど何もなし得ないと考えるべきです。むしろ、言葉によらず、自分の行いによって、“福音の力の証”と成る事が、女性の本性に相応しいと考えられるのです。ペトロは非常に単純な事、即ち、「良き妻であるように」と言う事以外は、何も勧めていないのです。彼女の、「生活」という、美しい沈黙の説教で、偏見や敵意の垣根を打ち壊して、真の救い主、主の御前に、自分の夫を導く事を勧めているのです。

このように、「服従」というテーマで語って来たペトロは、3:8節で、「終わりに」という言葉で、締めくくります。10節以下は、詩篇34篇の引用です。ペトロは、この引用の中で、「主の救いに与ろうとする者は、悪を避けて、善を行うべきである。それによって、人々の間に、平和を作り出さなければならない。」と、記しています。「この地上で、報復の権利を有するのは、ただ、神のみ」という固い信仰があるのです。

ペトロが生きた時代には、ユダヤ教は、キリスト教徒の名誉を傷つけ、身体的に苦しめ、財産を損ない、あらゆる方法で迫害しました。しかし、ペトロは語ります、「罪無くして苦しみ、神の御業に仕える苦難には、救いの約束が与えられる」と言っています。わたしたちは、永遠の命を生きています。仮に、迫害する者が、肉体を死に至らしめることがあっても、魂は生きていて、やがて、復活の喜びに浸ることが出来ます。イエス・キリストを否む人は、地上の肉体が滅びれば、魂も滅びてしまいます。イエス様は、「だから、人々を恐れるな」と、仰るのです。人間への恐れが、主イエス・キリストへの祈りに優ることはありません。イエス・キリストは、祈りに応えて下さり、人間への恐れは消え失せます。わたしたちの信仰を支えているのは希望です。わたし達は、人間を恐れることなく、逆に、わたしたちの希望を語り、弁明することができるのです。

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