過去の説教

熱心な祈りと天使の救い

熱心な祈りと天使の救い
大坪章美牧師

使徒言行録 12章1-11節

ダニエル書3章は、バビロニアの王、ネブカドネツァルの専制君主ぶりを描き出します。王は、ひとつの金の像を造りました。バビロンの南、約10キロほどの所に、ドラという平野がありまして、ここに、バビロンの神とも、自分自身とも言われる巨大な金の立像を造って、人々に拝ませた、というのです。

王は、この像の除幕式の為に、バビロン州だけでなく、バビロニア帝国の全ての州の高官達を招集して、自分の金の像の前に集めました。然し、その中で、たった3人の男だけが頭を下げようとはしませんでした。ダニエルの仲間であるシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人です。王は、「私が建てた金の像を拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。」と告げました。これに対して、3人は、「私達のお仕えする神は、その燃え盛る炉や、王様の手から、私達を必ず救って下さいます。そうでなくても、ご承知下さい。私達は、王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を、拝むことも、決していたしません」と、答えたのです。

ネブカドネツァル王は、血相を変えて怒り、3人を、服を着たまま縛って、燃え盛る炉に、投げ込んだのです。しかし、思いがけないことが起こりました。ネブカドネツァル王が驚いて、座っていた場所から立ち上がったのです。縛ったまま投げ込んだのに、3人が自由に歩き回っていて、3人の筈なのに、4人見える、ということでした。ネブカドネツァル王が、「出て来なさい」と呼びかけますと、驚くべきことに、火は、彼ら3人の身体にも、髪にも、衣服にすらも、何のダメージも与えていなかったのです。そして、ネブカドネツァル王が見た、炉の中の4人目の人影は、3人を救うために遣わされた「神の御使い」であったのです。

新約聖書にも、主の天使が現れて、信じる者を救われた、ということが記されています。使徒言行録12章3節には、ヘロデ・アグリッパ一世は、「ヤコブが殉教したのを、ユダヤ人たちが喜ぶのを見て、更に、ペトロをも捕えようとした」と、記されています。然も、“捕らえようとした”だけではありません。実際に、「ペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士、四組に引き渡して監視させた」と記されています。それは除酵祭の時期でした。4節に、「過ぎ越し祭の後で、民衆の前に引き出すつもりであった」と記されています。それは、祭りの後で、ディアスポラのユダヤ人たちが、それぞれ、外国からの巡礼者としてエルサレムに集まっている時に合わせて、ペトロを処刑して、ユダヤの民衆に喜ばれ、自分が喝采を浴びたい、という下心を持っていたからでした。こうして、ペトロは牢に入れられ、教会では、過ぎ越しの祭りが終わるまで、ペトロの為に熱心な祈りが、神に捧げられていたのです。  
愈々、夜が明けると、ペトロが牢から引き出される、という夜中の事です。主のみ使いがペトロの側に立って、光が牢の中を照らしました。ペトロは、天使が「帯を締め履物を履きなさい。上着を着てついて来なさい」と命じるままに従って、牢の扉はひとりでに開いて獄舎の外に出る事が出来ました。そこでペトロはようやく我に返って、自分の身に起きた事を悟ったのです。

それは、「主が、天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆の、あらゆる目論見から、わたしを救い出して下さったのだ」という思いでした。そして、このことが起きる前、教会では、ペトロのための熱心な祈りが、神に捧げられていたのです。その祈りは、「主の御心が成りますように」という祈りでした。

このような、「熱心な祈り」、それも、目先の事ではなく、「神の御心が成りますように」と祈る時、そのために必要なことは、整えられてゆくのです。バビロンのネブカドネツァル王の偶像を拝まず、「わたしたちの神が助けてくれます。たとえ、そうでなくとも、わたしたちの神のほかは拝みません」と言って、信仰を貫いたシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの迫害の時も、ダニエルの熱心な祈りがあったに違いありません。

私達も、同じように、「私達の目先の願いよりも、神ご自身とイエス・キリストの御心が実現するように」と、熱心に祈りつつ歩む者でありたいと願っています。

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