過去の説教

互いに重荷を担い合う

互いに重荷を担い合う
大坪章美牧師

ガラテヤの信徒への手紙 6章1-5節

主なる神様の御心は、人間には推し量ることは出来ません。13代目の王ヤロブアム二世の時に、北王国イスラエルは、かつてない繁栄を謳歌しました。ヤロブアム二世の政治的、軍事的な成功は、国を繁栄させたかのように見えましたが、その裏には、道徳的な腐敗と犯罪が横行して、金持ちは貧乏人を圧迫し、役人は、多くの金を出す者のために法を曲げていたのです。

アモス書6:1は、アモスの審判の預言です。「災いだ、シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者らは」と非難しています。驕り高ぶっている北王国の指導者たちに対して、預言者アモスは、“災いだ”と叫んで、彼らに、破滅すべき運命を語っているのです。

7節では、このような、神の御心に反した指導者たちの国が、どういう結末を辿るか、が記されています。「それ故、今や、彼らは、捕囚の列の先頭を行き、寝そべって、酒宴を楽しむことはなくなる」と、預言しました。しかも、その預言は、ほどなく実現しました。 

紀元前722年、北王国イスラエルは、アッシリアの攻撃を受けて、サマリアは陥落し、イスラエル10部族は、根こそぎ、捕囚の民となってしまうのです。

このアモス預言が語られてから、およそ800年ほども経った紀元55〜56年頃、第三回伝道旅行中のパウロもまた、「キリストの律法を全うしなさい」と、手紙に書いたことがあります。それが、ガラテヤの信徒への手紙で、パウロが、エフェソに滞在していた時のことでした。パウロが最後にガラテヤ教会を出発した後に、パウロに敵対するユダヤ主義者たちが、ガラテヤ地方の教会に入り込んだのです。彼らユダヤ主義達は、ガラテヤの信徒たちに、「イエスを信じるだけでは、救われない。割礼を受けて、安息日規定などの律法を守らなければ救われない」と教えていたのでした。

ところがパウロは、「異邦人は、異邦人のままで、主イエスを信じるだけで、救われる」と、教えましたので、ユダヤ主義者たちは、パウロに対して、強い敵意を持っていました。このような中で、パウロは、“ユダヤの民族主義”を振りかざす、ユダヤ主義者と対決して、ユダヤ人も、異邦人もなく、“聖霊の命を分かち合う者同士”の生き方を語っています。

6:1節は、「人間が自ら高ぶるのは、同じキリスト信徒仲間が、何らかの過ちを犯した場面に出会った場合に、起きやすい」という事を示しています。兄弟姉妹が躓き、倒れた時に、愛の手を差し伸べる行いは、即ち「他人の重荷を負う事」です。パウロは、「互いに、重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、“キリストの律法を全うする”事になるのです」と教えています。

「重荷を担う」ということは、単に、心の中で、相手の弱さに対して、思いやりと忍耐とを持つだけでは、済まされません。誘惑と罪とに喘ぐ相手の重荷を、「自分の重荷として引き受けること」を意味しています。

パウロは言っています、「各自で、自分の行いを吟味しなさい」。自分を常に他人と比較して、他人の出来ること、を物差しにすると、自分を見失うもとです。5節でパウロが語ってる、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」という言葉は、最後の審判の時に、「自分自身の行いを神の御前に吟味する生き方」をしたかどうか、の責任が問われる、という事が示されています。

5節で言われている、「自分の重荷」とは、“荷物”あるいは“積荷”を意味します。最初に記された、「互いに重荷を担い合う」場合の重荷は、危機に直面している人の手助けをする事でした。今5節で言われているのは、“自分の重荷”です。人には、自分で負わなければならない重荷があります。自分が担う荷物の中には、だれも、自分に代わって負い得ないものがあるものです。最後の審判の時には、「自分が与えられた荷物を、如何に担ったか」を問われます。キリスト者には、「隣り人のために重荷を担い合う」面と、ひとりひとりが単独で、「神の御前で、自らの荷物をどう担ったか」申し開きをする、という自主独立の面が、あたかも、兵士が持つ盾の両面のように存在しています。私達は、「互いの重荷を担い合いつつ、自らの荷物を負う」道を歩み通して、永遠の命に辿り着く事が出来るのです。

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