過去の説教

未来にある希望

未来にある希望
大坪章美牧師

ヨハネによる福音書 9章1-9節

エレミヤ書31:10以下で、エレミヤは、「諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした方は、彼を集め、羊飼いが彼を守られるように彼を守られる』」と、預言しています。

15節でエレミヤは語っています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて、嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちの故に泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもう、いないのだから」と述べています。ラケルの長男ヨセフが、マナセとエフライムという2人の男の子を産んで、イスラエルの12部族に数えられているのですが、紀元前722年のアッシリア軍の攻撃によって北王国イスラエルは滅ぼされて、マナセも、エフライムも、アッシリア帝国の領土に捕囚の民として引かれて行って、困難な生活を強いられていることを、嘆き悲しんでいるのです。

然し、16節で、主なる神様は、「泣きやむがよい。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは、敵の国から帰って来る。あなたの未来には、希望がある」と、言われました。今、苦労の内にある方、困難にある方、喜んでいいのです。その苦労は、無駄に終わることはないのです。

ヨハネによる福音書9章は、目の不自由な男性の癒しの出来事から始まります。イエス様は、「通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」と言うのです。どういう理由からかは分かりませんが、子どもの頃から、両親の愛からも見放されて、物乞いをするしか生きる手段が無く、寂しく孤独な人生を歩んでいたのかも知れません。このように自分の責任でもないのに、苦しい辛い日々を送っている目の不自由な人にとって、なお辛くなる質問が、弟子達からイエス様に出されました。2節です、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と、尋ねたのです。

当時のユダヤ人社会では、“苦難”と“罪”とは、一体のものでした。すなわち、「現在、苦難があるのは、かつて、罪を犯したからだ」という、もともとは仏教で、「過去や前世の行いの善悪によって、今、良い報いや、悪い報いを受けている」という考え方です。

しかし、イエス様のお答えは、弟子たちの予測をはるかに超えるものでした。イエス様は、「この人が、生まれつき目が見えないのは、本人の罪でも、両親の罪でもない。ただ、神の御業が、この人に現れるためである」と、お答えになりました

この、イエス様のお答えによって、目の見えない人が、どれだけ救われて、慰めを受けたか、は、測り知れません。自らの、「目が見えない」という障害が、単に、「運が悪かった」というのではなく、「神の御業が現れるため」という、積極的な役割を持っていた、と知らされて、救われたのです。

イエス様のお言葉は、悲しみの内にある人、苦しみ喘ぐ人々を、一瞬の内に、「希望をもって耐える人」に、変えて下さいます。6節には、「イエスは、地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目にお塗りになった。そして、『シロアムの池に行って、洗いなさい』と言われた」と記されています。7節の後半には、「そこで彼は行って、洗い、目が見えるようになって、帰って来た」と記されています。然し、この奇跡が起きたのは、シロアムの水のせいでも、なんでもありません。水に薬効があったのではありません。「目が見えなかった人が、目を洗った事」によって奇跡が起きたのは、イエス様の命令があったからです。イエス様のお言葉が発せられた時から、この奇跡は約束されていたのです。

ここでは、主なる神様が言われたエレミヤの言葉、「泣き止むがよい。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある」という、エレミヤの預言が成就しているのです。生まれながらに目が見えなかった人は、こうして救われました。わたしたちが受ける苦しみは、「主の栄光が現れるため」なのです。苦しみに遭っている人に、「あなたの未来には希望がある」と言って下さるイエス様に、感謝したいのです。

アーカイブ