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神の招き

神の招き
大坪章美牧師

ペトロの手紙一 2章1-10節

イザヤ書56章から最終章66章迄は、第三イザヤという無名の預言者の預言が語られています。彼は、紀元前538年以降、多くのイスラエルの民がユダへ、エルサレムへと帰国し、紀元前515年には、民族の悲願であった第二神殿が完成した後にも、神様の救いは実現せず、寧ろ、混乱の極みにある事を嘆きました。

苦難の時代に、主なる神様は見出されず、「沈黙して、イスラエルの叫びに答えてくださらない」という、嘆きの声が大きくなってきたのです。

そして、まさにその時に、主なる神様の、途方もない大きな恵みが現わされました。神様は言われます、65:1節です、「わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは尋ね出される者となり、わたしに求めようとしない者にも見出される者となった。わたしの名を呼ばない者にも、わたしはここにいる、ここにいると言った」と言われるのです。神を尋ね求めず、神のお名前を呼ばないどころか、「神に反逆し、自分の悪しき思いに従う」民に対しても、ひねもす手を差し延べて、ご自分に立ち返るのを、待っておられると言うのです。

この、“神の招きの御声”について、12使徒のひとりシモン・ペテロが、小アジアの各地に離散して、信仰を守っている兄弟姉妹宛てに送った手紙の中で、書き記しています。1:23節には、「あなたがたは、朽ち果てる種からではなく、朽ちない種から、即ち、“神の、変わることの無い生きた言葉”によって、新たに生まれたのです」と記されていて、キリスト者の中には、“神の命”があることが示されています。新しく、神の手によって生まれたキリスト者には、それぞれの霊的な成長を保証する為の、養分が必要です。この、“養分”こそ、「混じり気の無い教え」であり、これが、キリスト者に、常に新しい認識を与えてくれるのです。熱心な信仰者は、適切な、霊的な食物の供給を受けて、ますます、より大きな信仰の力に、達するのです。

ペトロの手紙一の読者達は、「“主が、恵み深い方である事”を味わった」と、記されています。突き詰めて申しますと、主イエス・キリストご自身が“霊の食べ物”であって、“新しく、御言葉によって生まれた者”が、その完成を見る為には、「主イエス・キリストを、味わう必要がある」という事が示されているのです。

4節以下には、異なる譬えが記されています。これ迄の、「キリスト者の “霊的な成長”」の問題ではなく、“霊的な建築”が問題になります。「この主のもとに来なさい」と、キリスト者を招いているのは、その集会が「神によって礎が築かれた、本当の“霊の宮”」である事を示しています。神様は、ユダヤ民族の降した決断を祝福する事なく、彼らが捨てた“石”を利用して、“新しい宮”を、お建てになりました。こうして、かつてはイスラエルの民から締め出されていた異邦人が、「霊による神の住まい」へと、築き上げられたのです。

この貴い隅の首石は、信じているキリスト者にとっては、かけがいのない物ですが、信じない者達にとっては、「家造りの捨てた石」に過ぎず、又、「つまづきの石、妨げの岩」に過ぎません。具体的には、「信じない者達」とは、ユダヤ人の事です。ユダヤ人は、律法が目標とする“神の義”を、「信仰によらず、業によって達成しようとした為に挫折した」と、言っています。

そして「それとは反対に」とペトロは語ります。9節です「然しあなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神の物となった民です」と、この手紙の読者達の集会をほめ讃える言葉を語っています。

この手紙の読者はかつては異邦人で、神の民ではありませんでした。異教の偶像に仕え、主なる神ヤハウェを知らず、イエス・キリストを知らなかったのです。

然し、今や神の民とされ、「神の恵みを受ける者」となりました。その結果、彼らを取り巻く異教の世界では、他所者となりましたが、今、新しい契約による“神の民”に加えられて、神の救いの、豊かな恵みに与っているのです。異教の神々に仕えていた時とは異なる次元の、“喜び”と、“希望”に生きています。そして、その、一人一人が、かつて、耳にしたのです。主なる神様の、「ここにいる、ここにいる」という、御声です。

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