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恵みと真理とに満ちた方

恵みと真理とに満ちた方
大坪章美牧師

ヨハネによる福音書 1章9-14節

エゼキエル書37章27節には、「わたしの住まいは、彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という神の約束が記されています。これは、旧約聖書、新約聖書を通しての、永遠に変わることの無い、神とわたしたちの契約です。即ち、“永遠の契約”です。イスラエルの民は、それを、“割礼”即ち、男の子であれば、生まれて八日目に行う、割礼によって神の民となりました。わたしたち日本人や異邦人はどうでしょう。それは、“洗礼”と“聖餐”に与ることによって、神の民とされているのです。

エゼキエルが預言した、わたしたち神の民と、主なる神様との“永遠の契約”が、新約の時代になってからも語られている箇所が、ヨハネによる福音書の1:9節です。ヨハネが語っている「その光」とは、5節で言われました、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は、光を理解しなかった」という言葉から、続いています。
そもそもイエス様は、“ご自分が創造された世界”、ご自分が生まれさせた子たちの所へ来られたのに、世の人達は、イエス様を拒否したのです。3節には、「万物は、言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは、何ひとつ無かった」と、記されているにも関わらず、世の人々は、創り主を拒否したのです。

常識的に物事を判断する人にとっては、「真の光なるキリスト・イエス」が、何故人々に捨てられ、十字架に付けられ、殺されなければならないのか、・・その、本当の理由は、理解し難い事です。それを分かっているのは、ユダヤ教の指導者達だけでした。彼らだけは、その理由を知っていました。ユダヤ教の指導者達は、「自分達の安定した宗教的権威を、根底から覆そうとする恐るべき敵を、イエスの中に見出した」のでした。

11節に記されています、「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」という言葉は、この、イエス様のエルサレム入城を、歓呼の声でお迎えした大群衆も、本音を探りますと、「イエス様が、五千人の供食」をされた折りに、パンと魚を頂いて満腹して、「ほかのすべての願いも、イエス様が叶えて下さるであろう」と、期待して集まって来た人々であったのです。はっきり申しますと、「自分たちの物欲を満たして下さる方」としか、見ていなかったのです。

そして、11節で読み取れる、驚きの事実があります。「言は、自分の民のところへ来た」と訳されていますが、イエス様は、ご自分のものから、受け入れられずにいたのです。人間にとって、「受け入れられないで存在すること」は、不可能です。時間的にも、空間的にも、人間によっても、“受け入れられる”から、人は、存在し得るのです。ですから、イエス様の行き着くところは、“十字架の死”しかありませんでした。

ここで、明らかにされているのは、天地創造の出来事からして、どれほど、人が、「光であり、命である“言”を必要としているか」ということにも係わらず、「“人の世”が、光であり、命である“言”を受け入れなかった」、という事実です。この“罪”の本性は、人間の、“名誉を追い求める権勢欲”“全てを自分の欲望に奉仕させよう”という、「いわば、自らが神の地位に就こうとする」思い上がりに外なりません。12節には、「然し言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた」と記されています。 

「“然し”ロゴスを受け入れた人々がいた」のです。その人達は、人間の努力によってではなく、“神の力によって”生み出されたのです。「イエス・キリストを信じます」と、告白する事が出来る人は、自分が、まさに、“肉の欲望”によらず、“神の力”によって、新たに生まれたこと、神が、自分の意思を超えて、救いのために働いて下さった事を、認めざるを得ないのです。

ヨハネが、「栄光の主は、恵みと真理とに満ちていた」と言った言葉は、紀元前590年頃、預言者エゼキエルがイスラエルの民に語った主の言葉、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という約束の実現でした。わたしたちは、いついかなる時にも、神の救いの約束、「永遠の契約」に守られて、心安らかに過ごすことが出来る幸いを感謝したいのです。

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