過去の説教

天の万象を創造した方

天の万象を創造した方
大坪章美牧師

コロサイの信徒への手紙 1章9〜16節

イザヤ書40章26節は、紀元前6世紀後半に活動した第二イザヤと呼ばれる預言者の手に成るものです。紀元前587年にエルサレムの城壁が初めて異国の軍隊バビロニアに破られ、王は捕えられ,家臣や有力な民は全てバビロンに連行されるという事件がありました。

第二イザヤは、この頃に活動した人物で、祖国を離れて、異国の地で働かされる同胞の民に向かって、「解放の時が近いこと」を、告げ知らせた預言者でした。

イザヤは語ります、40章23節には、「主は諸侯を無に等しい者とし、地を治める者を、うつろな者とされる」と、あります。多くの権力者や王たちが歴史に現れては、消えてゆきます。権力者や王は、その時代を生きる者に対して、あたかも、神のように振舞いますが、それは、永遠ではありません。人間は、どのような権力者のもとに生きるにしても、わたしたちが従うべきなのは、時々の権力者ではなく、“主なる神様”の他には、無いことを知らされるのです。

今、ここ、25節の後段では、「わたしを、誰に比べようとするのか」と、問いかけられています。私は、「天の万象を創造した者」と言われます。今や捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民は、解放される時が来たのです。苦渋に満ちた捕囚の経験も、解放の喜びも、全ては歴史を支配される神の御業の内にある事を、思い知らされるのです。

この、「主なる神様が、天の万象を造られた」という確信を、イエス様の使徒、パウロも語っています。パウロの晩年、紀元57年頃、パウロがローマで獄中にあった時、エパフラスがパウロを訪問したのです。コロサイの教会が危機に瀕していることを報告し、パウロに指示を仰いだのですが、その結果生まれたのが、コロサイの信徒への手紙でした。

1章13節から14節に記されている言葉、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたし達は、この御子によって、贖い、即ち、罪の赦しを得ているのです」という記述は、パウロの信仰告白に外なりません。

「光の中にある」とは、「神のいます場所」を意味しています。信仰告白では、「父なる神様は、わたしたちを、“闇の力”から救い出してくださり、“愛する御子の支配下”即ち、“光の中”に移してくださいました」と、告白しています。これが、まさに、“救い”です。即ち、“救い”とは、“暗黒の力が支配する領域”から、“キリストが支配される国”へ、移されること、だからです。そして、わたし達は、この世にありながら、既に、“キリストが支配される国”へ移されているのであって、まさに、“天に生きている”のです。“救い”とは常に、「闇から光に」、「暗黒の力が支配する領域から、キリストが支配される国へ」移される事なのです。

そして、パウロは、1章15節以下で、核心に触れる言葉を残しています、ここには、全宇宙の主であるキリストを讃えるキリスト賛歌が歌われています。「キリストは、神の姿」とされていて、「すべてのものが造られる前に生まれた方」、即ち、「最初の者」であって、救いの出来事としては、「死人の中から最初に生まれた方」と、歌われています。救い主、キリストは、創造主と一つでありますから、救済が可能であり、確実になるのだ、というのです。“救済”即ち“救い”とは、この世界からの脱出の方法ではありません。この世界は、もともと、救済者、キリストの支配される領域ですから、“救い”は、この世界の中で起こるのであって、世界を、その初めに連れ戻すことなのです。

イエス・キリストは、神様が世界に関わられる時の、仲立ちとして、働かれます。キリストが神の形として、認識される時、世界は、被造物として理解されます。そして、キリストが支配される、その世界は、“時間を超越したものである”ことが、16節の終わりの言葉で分かります。即ち、「万物は、御子の中で、御子によって、御子を目指して」造られました。天地、万象は、御子イエス・キリストによって造られました。私達は、この、キリスト・イエスによって選ばれ、その兄弟姉妹とされていることに、限りない平安を覚えるのです。

アーカイブ