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わたしたちの心のある所

わたしたちの心のある所
大坪章美牧師

ルカによる福音書 12章22-34節

主の言葉が預言者ハガイを通して、ゼルバベルとヨシュアに臨んだのは、ダレイオス王の治世2年、即ち紀元前520年の7月21日の事でした。「お前達、残った者のうち、誰が、昔の栄光の時の、この神殿を見たか。今、お前達が見ている様は、何か。目に映るのは、無に等しいものではないか」と、言われたのです。

それでも、ハガイは、「勇気を出せ」と、残った者たちに、励ましの言葉をかけています。預言者ハガイの思いは、ただ、“イスラエルの民の繁栄、であり平和”でありましたが、彼が語った神の言葉は、その思いをはるかに越えた、“諸国の民の平和であり、地上の世界、そのものの救い”にあったのです。

ハガイが語った預言、「再建される神殿を栄光で満たし、銀はわたしのもの、金もわたしのもの」と言われる主の言葉は、「エルサレム神殿の栄光の内にこそ、ハガイの心があった」ことを表しています。

時は移り変わりまして紀元30年頃の、場所は、同じく、エルサレムです。イエス様は、弟子たちや、大勢の群集を前にして、話をされていました。話の主題は、「人生における、財産の価値」の問題です。まず、イエス様は、有り余るほどの財産を持っているものに対して、言われました。或る金持ちの畑が大豊作で、その金持ちは、今までの倉を壊して、さらに大きい倉を造って、収穫したものや財産をすべてしまい込んで、「さあ、これから先、何年も生きていくだけの蓄えが出来た。さあ、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言ったというのです。この金持ちは、すべてが自分中心でした。神様は仰いました、「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。神の前に豊かにならない者は、このようになる」と言われたのです。

次にイエス様は、愚かな金持ちとは対照的に、財産や蓄えが無い人に向かって語られました。イエス様が言われた、「命の事で、何を食べようか、体の事で、何を着ようか、と思い悩むな」というお言葉は、財産というよりも、生きていく上で、最小限必要な、基本的な要求を満たす物に過ぎません。そこには、神様が創られた物への、神様の配慮が語られています。「烏の事を考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も、倉も持たない。だが神は、烏を養って下さる」と記されています。神様は、人間を烏よりも高く評価しておられるのですから、人間は、たかが食べ物のことで、あくせくと心配することは無い、と仰るのです。

そして、「いくら思い煩ったからといって、寿命を延ばす事が出来ようか」言われました。即ち、「人は決して、自分の肉体を自由にできる“主人”ではない」と言う事が語られています。イエス様はこれらの譬えによって、「思い煩いは意味がない」と仰っているのです。

そして、イエス様は、不必要な「思い煩い」や「取り越し苦労」などをやめて、ただ一つ、必要な事を、行いなさい、と教えて下さいます。それが、31節に記されています、「唯、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、加えて与えられる」と仰いました。

神様にお委ねすれば、わたし達の心を知っておられる神様は、最上のものを与えて下さることが、分かっているからです。「自分の思いを押し通すこと」ではなく、「自分の思いを、神様に委ねること」が大切なのです。

イエス様は言われます、「自分の持ち物を売り払って、施しなさい。擦り切れる事の無い財布を作り、尽きる事の無い富を天に積みなさい」と、仰いました。地上の財産に心を奪われている人は、あの愚かな金持ちのように、財産を無駄にしてしまうのです。茲で、イエス様は、大切な教えを語られました、「あなた方の富のある所に、あなた方の心もあるのだ」と言われました。

かつて、預言者ハガイは、再建される第二神殿に、富が集まるとき、「神に栄誉が帰される」と、語りました。ハガイの心も、そこにありました。御国の到来を求める者の心は、御国にあります。「天に宝を積む者」の心は、天にあります。地上の財産に心を奪われる者の心は、やがて朽ちる財産と共にあります。わたしたちは、御国の到来を待ち望みましょう。天に宝を積む人々に倣うものでありたいと願っています。

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