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御言葉に信頼する

御言葉に信頼する
大坪章美牧師

マタイによる福音書 4章1-10節

申命記20:22節からは、十戒に続いて、「契約の書」が記されています。十戒は、神様が山に降って与えられたものです。「天から語られた」という事は、神様は、「地上の物質的ないかなるものにも、拘束されない」ということを示しています。その具体的な教えが、「神の像は、禁じられる」という事です。「あなたたちは、わたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も、金の神々も造ってはならない」と、記されています。これは、十戒の第二戒、「あなたは、いかなる像も造ってはならない」という戒律を説明したものです。

実際には、イスラエルの民は、この後、モーセが山に登っている間に、モーセの兄、アロンをせきたてて、金の子牛像を造るのですが、この時、みんなから金の材料を集めて、この世的にも値打ちのある神の像を造ってしまうのです。人間の心は弱いもので、常に、目に見える偶像や、高価なものに惹かれてしまうのです。

この、人間の持つ弱さを、「イエス様が、試される」という出来事があった事が、新約聖書に記されています。マタイ福音書4:1節です。この直前、イエス様は洗礼者ヨハネによって、ヨルダン川の水で洗礼を授けられました。イエス様は、「これは、わたしの愛する子」と神様から宣言されたのですが、果たして、この宣言が、“偽りのない真理であるかどうか”の問題について、イエス様は、悪魔との対決の場に引き出されたのです。イエス様は、3つの誘惑にさらされました。

4:2節以下には、最初の誘惑、イエス様が40日間、昼も夜も断食された後で、空腹を覚えられた時の事が記されています。その時、誘惑する者が来て、イエス様に言いました、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔が囁いたのです。

これに対して、イエス様はお答えになりました。「『人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』と書いてある」と仰ったのです。イエス様は、当然、石ころを、パンに変える事がお出来になる方でした。然し、ここで、飢え死にする危険の中で、イエス様は、「神の御心にすべてを委ねて、それにのみ従って生きる生き方」を貫かれたのです。

次に悪魔は、二つ目の誘惑に着手します。悪魔は、イエス様を、聖なる都、エルサレムに連れて行って、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と、挑発したのでした。しかし、イエス様は仰いました。「『あなたの神である主を、試してはならない』とも、書いてある」と、反論されたのです。

最後の、3度目に、悪魔はイエス様を、非常に高い山に連れて行って、世の全ての国々と、その繁栄ぶりとを見せて、「もし、ひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と、言ったのです。然し、茲には、悪魔の欺瞞があります。悪魔が、「この世の権威と栄華は、全て自分の手の中にある」と囁いたのは、事実ではありません。確かに、一時的に、神様が御顔を隠され、この世が、「罪と死の支配のもとに屈した」かのように見える事はありますが、主なる神様の、聖なる支配は、揺らぐ事はないからです。一時的に、悪が栄えても、それは、神様の制約のもとにあるのです。

イエス様は、断固として答えられました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ、主に仕えよ』と書いてある」と、言われました。悪と妥協しては、悪を征服することはできません。イエス様も、わたしたちキリスト教徒も、自らの身を屈めて、世の水準にまで落ちてはいけないのです。それよりも、世を、自らの水準にまで引き上げるより、方法は無いのです。

主なる神様は、モーセに命じて、イスラエルの人々に言わせました、「あなたたちは、わたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、造ってはならない」。主なる神様は、地上の如何なる物質的なものにも、拘束されるような方ではありません。イエス様も、悪魔が取引しようとした、地上の国々と繁栄ぶりを見せられても、「退け、サタン」と、一喝されました。私たちは、目には見えませんが、宇宙を作られ、人間の歴史を導いておられる主なる神様にのみ、目を向けて、歩み続ける者でありたいと願っています。

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