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主の新しい掟

主の新しい掟
大坪章美牧師

ヨハネによる福音書 13章31-35節

預言者マラキが2:10節で語った、主の言葉、「われわれを創造されたのは、唯一の神ではないか」との呼びかけは、「わたしたち、イスラエルの民は、父祖アブラハム以来、唯一の神、ヤハウェの子ではないか」という呼びかけです。「同じ父なる神を持つイスラエルの民の間で、神の愛で結ばれた交わりを保たなければならない」という父なる神様の指摘がなされています。

預言者マラキの時代から、五百年ほども時が経って、紀元30年頃の春まだ浅いエルサレムでの出来事です。イエス様は、エルサレム市内の、とある家の二階の広間で、弟子達と最後の晩餐をされました。12人の弟子達の一人ユダは、イエス様から渡されたパン切れを握りしめて夜の闇に消えて行きました。著者ヨハネは、「夜であった」と記しています。「夜であった」と記されましたのは、イエス様の“福音伝道”の働きが茲で打ち切られて、この時点から、明らかに、十字架への道を進まれる、という転機を示す象徴的な言葉でした。

イエス様は、「今や、人の子は栄光を受けた。神も、人の子によって、栄光をお受けになった」と言われました。 “栄光”を与えることが出来るのは、人間では出来ません。人間が与えることができるのは、せいぜい、「名誉」か、或いは「誉れ」です。イエス様は、「イスカリオテのユダが、なそうとしていることをするために、12弟子から離れて、去って行った」ことによって、「神の栄光」を、お受けになったのです。

ここには、わたしたちの、“この世の生き方”にも関連することが表されています。即ち、「人間による“名誉”や“誉れ”を求めて生きるか、或いは、神より与えられる“栄光”を求めて生きるか」の選択です。そして、「しかも、すぐ、お与えになる」と仰ったのは、「十字架に付けられ、三日目によみがえり、天に昇られる」ということを、弟子たちに預言されたのでした。

33節には、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、いま、あなたがたにも同じことを言っておく」というイエス様のお言葉が記されています。

そして「わたしの行く所に、あなた達は来る事ができない」というお言葉の、本当の意味は、「弟子達の意思によって、イエス様の御許に行こうと思ってもそれは出来ない」という意味でした。イエス様の御許に行くべき時は「わたしが、決める」と仰っているのです。

イエス様は仰いました「あなた方に、“新しい掟”を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われました。茲で、用いられている「愛し合いなさい」という言葉は、アガペーというギリシャ語です。この、イエス様が「あなた方を愛したように」と仰る場合の“愛”は「道徳的な愛」や「恋愛の愛」、或いは、「肉親の愛」ではありません。又マタイによる福音書の22:39節に記されています、「隣人を自分のように愛しなさい」という、新しい律法ですらありません。

その、“愛”とは、“イエス・キリストの極み、極限の愛”であって、“自分の命を捨てる愛”、そして、“十字架の上で血を流し、肉を裂かれる、愛”なのです。イエス様は、このような“愛”によって、「互いに、愛し合いなさい」と、言われました。本当に、イエス様がわたしたちを愛して下さった“愛”は、まさに、わたしたちの罪の贖いのために、「十字架の上で、血を流し、肉を裂かれた“愛”」でありました。これは、全く新しい、“戒め”、「主の掟」です。

思い起こしますと、預言者マラキが語った、神の言葉、「わたしたち、イスラエルの民は、父祖アブラハム以来、唯一の神ヤハウェの子ではないか」と語り、同じ“神の子”同士で敵対したり、裏切ったりすることの愚かさを、預言しました。

ヨハネが語る“主の言葉”も、同じことを語っておられます。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」この掟によって、わたしたちは、計り知れない“神の恵み”のうちに、生かされるのです。

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