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キリストの体の一部分

キリストの体の一部分
大坪章美

コリントの信徒への手紙一12章12-22節

紀元55年の春の頃、当時第三回伝道旅行の途上にあったパウロは、エフェソの町で3年もの間伝道して、エフェソの教会の基礎を築きました。この頃の事です、パウロが5〜6年も前の、第二回伝道旅行中に、建てたコリント教会の信徒の家の者が訪ねて来て、コリントの教会の中に不和が生じていることを知らせ、また、同時に、幾つかの質問をしたのでした。コリントの信徒への手紙一は、これに対する回答を記した手紙です。

12:12節以下では、主なる神様から様々な賜物を受けている教会員一人一人と、教会全体との関係を、キリストの体である教会と、キリストの手足である教会員との関係において、明らかにしようとしています。

パウロは、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」と、言っています。これは、わたしたちを、ハッとさせる言い方です。何故なら、“体の例”を初めに語っているからです。

ここに、「教会は、“単なる人間の組織”ではない。むしろ、“聖霊の活動”によって存在させられていて、聖霊は、教会員を、“十字架につけられ、甦られたキリスト”との一致に結び合わせる」という、真理が語られているのです。

13節で、パウロは、コリントの人々に、「彼らはそれぞれ、一つの体の手足であるから、一つの体として、一致しなければならない」との理由を思い起こさせます。ここには、パウロが、5〜6年前に建てた時のコリント教会とは異なって、「今、教会の中には、分派争いが起きている」と、知らせてくれた、コリントの信徒であるクロエの家の者の不安と畏れに対して、パウロ自身も非常に憂慮して、コリント教会の本来あるべき姿を示そうとしていることがわかります。

わたしたち、キリストの体の一部分を構成する者として、守らなければならないことが3つあります。一つは、「わたしたちは、お互いを必要とすることを知らなければならない」ということです。ある人たちが、自分たちが受け持っている仕事こそが、最も重要なものだ、という風に思い込んで、それにのみ熱中するあまり、他の人たちが受け持っている仕事を無視したり、批判したりすることがありますが、キリストの体である教会が健康体であるためには、すべての人が、その能力に応じた、仕事を行うことが必要なのです。

二つ目に、「わたし達は、お互いに尊敬し合わなければなりません」。私達は、互いにキリストの体の各部分なのですから、どこか、特定の部分が、他の部分よりも大切であるとか、優れている、という事はありません。神様の目から見れば、どの奉仕も、同じ様に、価値があります。その様な中で、自分の働きは、他の人々よりも価値があると思い込むような事があれば、キリストの体としての教会に、弱点を抱える事になります。

みっつめに、「わたし達は、互いに、同情し合わなければなりません。体の一部分が傷つけば、他のすべての部分が、痛みを感じます。そして、一緒に苦しむことになります。それほど、わたしたち、キリストの教会の一部分は、互いに深く、影響し合っているのです。

パウロは、21節以下で記しています。「目が、手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が、足に向かって、『おまえたちは要らない』とも、言えません。それどころか、体の中で、ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と語っています。

この、パウロの言葉は、コリントの教会の実際の状況に即した言葉でした。コリントの教会では、パウロが居なくなった今、グノーシス主義者で、自らの霊の賜物を誇っていたユダヤ人キリスト者達が、ギリシャ人であるコリントの教会の、知恵や知識が乏しい兄弟たちに対して、「お前たちは要らない」と蔑んでいたことを物語っています。パウロは、彼らグノーシス主義者の主張を、強く否定しています。「弱く見える部分が、かえって必要なのです」と、言っています。さらに申しますと、パウロは、「弱く見える教会員にも、強く見える教会員に対すると同じように、“キリストの死の代価”が支払われているのだ」と、主張しているのです。

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