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生ける水の源

生ける水の源
大坪章美

ヨハネによる福音書 4章7-15節

エレミヤが預言者として、主なる神様の召命を受けたのは、紀元前627年、20才の頃でした。主なる神様は、エレミヤの口を通して、語りかけられました。

エレミヤ書12:12で、「天よ、驚け、このことを」と、主なる神様が言われているのは、「天で行われている裁判、即ち天の法廷」に対して言われています。「天の法廷が、震え慄く程驚く事」とは、13節で語られています。主なる神様は告発されています、「わが民は、二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った」と、非難されています。

ここには、根本的な問題が語られています。主なる神様は、“湧き水の、泉”であり、“あらゆる命の、源泉”であられます。そして、それ以外の、異教の神や偶像は、単なる“水溜め”に過ぎません。確かに、“水”は存在するのでしょうが、直ぐに尽きてしまう水です。

この、エレミヤが語った預言から、650年もの時が流れて、紀元30年の頃です。イエス様はユダヤ地方へ行かれて、弟子達は人々に洗礼を授けていました。ヨルダン川の渓谷で、洗礼を授けていたのです。イエス様は、ファリサイ派の人々との衝突を避ける為に、ユダヤを去って、再び、ガリラヤへ行こうとされました。そして、サマリアを縦断する道を選ばれました。

シカルと言う町は、エルサレムの北の方角、55?の所にありますが、イエス様は、午前中は歩き通しておられたのでしょう。直射日光の一番強い時刻に、イエス様は、ヤコブの井戸のそばに座っておられました。

ちょうど、その時、「サマリアの女が、水を汲みに来た」と、記されています。旅の疲れと、喉の渇きで、井戸のそばに座っておられたイエス様は、そのサマリアの女性に、声をかけられました。「水を、飲ませてください」と、お願いされたのです。女性は、直ぐに、「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして、水を飲ませてほしいと、頼むのですか」と、言い返した、記されています。「ユダヤ人のあなたが」と言ったのは、ユダヤ人は、アブラハム、イサク、ヤコブ、の血統を保って、純血を誇っていたからです。

然し、イエス様がサマリアの女性に声をかけられたのは、単に、物理的な、喉の渇きを癒す為ではなくて、女性に、“神の救いを語る”ことが、本来の目的でした。

イエス様はお答えになりました、10節です、「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』と言ったのが誰であるかを知ったならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに“生きた水”を与えたであろう」と言われたのです。

「生きた水」とは、一体、何の事でしょうか。二つの意味が考えられます。一つは、物理的に、“湧き水”や、“流れている水”のことで、“溜まり水”ではないものです。そして、二つ目は、霊的に、「イエス様を信じる者に与えられる“命の水”」の事です。サマリアの女性は、“霊的に”考えることが出来ませんでした。当然、“湧き水”あるいは“流れている水”と考えました。

女性は、「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこから、その、“生きた水”を手にお入れになるのですか」と尋ねました。イエス様は、「命の水」について、「この水を飲む者はだれでも、また渇く。然し、わたしが与える水を飲む者は、決して乾かない。“わたしが与える水”は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われました。

イエス様を信じる者の心は、決して、“死の渇き”を覚えることはないのです。不思議なことです。わたしたち人間は、イエス様が下さる、“命の水”に行きつくまでは、“死の渇き”を繰り返さざるを得ないのです。

サマリアの女性の言葉は、彼女が生きている世界と、イエス様との間に、深い淵がある事を表わしています。彼女の理解は、650年ほども前に、エレミヤが語る、主の言葉を聞いた、イスラエルの民と、全く同じでした。主は語られました。イスラエルの民は、二つの悪を行った。ひとつは、「生ける命、の源であるヤハウェを捨てた」ことです。二つ目は、異教の神々や偶像を表す、「役に立たない、水溜めを掘った」ことです。井戸の水を飲んでも、魂の渇きは、癒されない、のです。

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