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キリストの律法

キリストの律法
大坪章美

ガラテヤの信徒への手紙 5章25-6章:2節

申命記が語られたのは、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出した日から、40年と11カ月が経った時でした。モーセはイスラエルの民がカナンの地に入り、その領土を得て、そこに住むようになる場合の注意を、特に真剣に命令しています。「注意して、罠に陥らないようにしなさい」と語っています。

モーセが語る、第二の律法の厳しさは、私達の常識をはるかに超えています。「主なる神、ヤハウェへの信仰を捨てて、他の神々に仕え、礼拝しよう」と、誘う者は、家族であっても、死刑にしなければならない、という教えは、現代に生きるわたし達であるからこそ、批判的に見る事ができますが、当時は、“この教え”こそが、正義でした。そうしないと、イスラエル民族が消滅してしまう、という危機感のもとにあったのです。

この、モーセが説教で語った、「他の神々に仕え、礼拝しよう」と誘惑する者への厳しい制裁の問題は、モーセの時代から千三百年余りも経過した、紀元54年頃に、パウロが著したガラテヤの信徒への手紙の中にも現れている事に、わたし達は、驚きを禁じ得ません。

パウロは、ガラテヤの教会に2度も滞在し、伝道し、福音を伝えたのですが、その後、パウロに敵対するユダヤ主義者達が、入り込んで来たのでした。ユダヤ主義者と言うのは、ユダヤ人キリスト者の事で、キリスト者でありながら、“割礼の実施”、や“安息日の遵守”、“ユダヤ教の祝祭日の遵守”等を強制していたのです。

パウロは、ガラテヤの信徒達がユダヤ主義者達に惑わされて、割礼や安息日を守り、律法を重視する生活を送っている事に、我慢がなりませんでした。ですから、「目の前に、イエス・キリストが十字架に着けられた姿で、はっきり示されたではないか」と、強調する事によって、“救いの道としてのモーセ律法”は、“イエス・キリストの十字架の死による罪の贖い”に取って代わられたではないか、と説き明かしているのです。

パウロは、「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」と、語っています。パウロは、“肉の業”と対比させて、“霊の結ぶ実”を列挙しているのです。霊の結ぶ実は、救いの徴です。“愛”も、“喜び”も、そのほか、それに続く、すべての霊の実は、苦しい努力によって生み出される業ではなくて、おのずから生じてくる“実”です。

何故、このような幸せな結果になるのか、と申しますと、“洗礼”という出来事は、洗礼を受ける者の暗い部分がキリストと共に、十字架に着けられて、霊肉共に、新しくされた人間として、生まれ変わるからです。

パウロは呼びかけました。「兄弟達、万一、誰か不注意にも、“何かの罪”に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で、正しい道に、立ち帰らせなさい」と勧告しています。パウロは、「互いに、重荷を担う事によってこそ、キリストの律法を全うする事になるのです」と述べています。

“キリストの律法”とは何か、と申しますと、ヨハネによる福音書の13:34節でイエス様が言われました、「あなたがたに、新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい」と記されています。明日は、十字架に掛かられる、という前日の夜、弟子たちに言い残された言葉です。「愛する」ということは、人に金品を与えることだけではありません。「その人の重荷を担ってあげること」が大切です。時には、担ってあげるには重すぎる荷物もあります。それでも、“何とかして、担おうとする気持ち”が大切です。

モーセの第一の律法は、シナイ山で神から与えられた十戒を初めとする契約でした。そして、モーセの第二の律法は、世代が変わったイスラエルの民に、ヨルダン川の東で語った律法でした。申命記と呼ばれています。異教の神々に仕えようと誘惑する者は、家族であっても死を免れませんでした。民族が生きるか死ぬかの時、やむを得ないことでした。然し、第三のキリストの律法は違います。「罪に陥ったならば、柔和な心で、正しい道に立ち帰らせなさい」と、教えています。

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