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真の救い主

真の救い主
大坪章美

マタイによる福音書 23 章 1-12節

エレミヤ書2章は、エレミヤが預言者として神に召された時の王、ヨシヤの治世になされた預言です。エレミヤは、「主は、こう言われる。わたしはあなたの若い時の真心、花嫁の時の愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と語りました。神様は、かつての、主なる神ヤハウェと、イスラエルの民との、救いの契約を、結婚の契約として、語っておられるのです。 

24節で語られた、「荒れ野に慣れた雌ろば」とは、ユダの人々、エルサレムの人々の事を指しています。花嫁は、花婿である主なる神様、ヤハウェにのみ、愛と真実を捧げ、仕えなければならないのです。それが、主なる神のことを忘れ、異教の神々、アッシリアやエジプトの神々や、バアルを求めて礼拝しているのです。

この、制御不能の雌ろばの欲情のように、主なる神、ヤハウェに仕えようとしないユダの民は、憐れにも、滅亡へ突っ走ることになってしまいます。ここにあるのは、罪の力です。罪の力は、「神から来るものすべてに反対し、拒絶する」という形で、正体を現すのです。

27節には、「彼らは、木に向かって、『わたしの父』と言い、石に向かって、『わたしを産んだ母』と言う。」と、主なる神様が非難しておられます。真の神、ヤハウェの代わりに、木や石を礼拝することは、恥ずべきことでした。木や石で作った偶像が、災いに陥った時の救いにならないことは、分かり切ったことでした。
主なる神様は、預言者エレミヤの口を通して、皮肉を込めて、ユダの民に答えられました。「お前が造った神々は、どこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ。災難に遭ったお前を救い得るのならば」と、民が答えに窮するような問いを発せられたのです。

しかし、これは、ただ、イスラエルの民や、ユダの人々を、窮地に陥れることが目的で、仰っているのではありませんでした。主なる神様、ヤハウェのご意思は、これらの預言によって、イスラエルの民を、誤った場所から、救いの道へと、導くためのお言葉でした。

時代は変わって、マタイ福音書の23:1節からは、イエス様が律法学者と、ファリサイ派の人々を激しく非難される言葉が続いています。読み進めるに従って、激しい言葉で、彼らを非難されるのですが、それが、最初だけは、違っているのです。イエス様は、「律法学者達や、ファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」と言われ、続いて、「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また、守りなさい」と、言われたのです。

然し、イエス様は、律法学者たちや、ファリサイ派の人々を、無条件に肯定することはなさいませんでした。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである」と、記されています。

また、イエス様は指摘されました。律法学者達やファリサイ派の人々は、「宴会では上座、会堂では上席に座る事を好んで、また、広場では、挨拶を受けたり、“先生”と呼ばれたりすることを好む」と、言われました。

イエス様は、弟子達に、厳しく戒められました。8節以下です、「だが、あなたがたは、“先生”と、呼ばれてはならない」、「また、地上の者を、“父”と呼んではならない」と仰ったのです。また、「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師は、キリスト、一人だけである」と言われました。ここで言われている“教師”とは、「先立って進む、信仰の導き手」であることを意味しています。そして、その方は、キリストの他には、いないと、言われているのです。

イエス様は確かに仰いました、「あなたがたの教師は、キリスト一人だけである」と、教えられました。一方、わたしたちは、今日、預言者エレミヤが語った、神の言葉を覚えています。主なる神様は、ユダの人々に言われました。「お前が造った神々は、どこにいるのか。彼らが立ち上がれば良いのだ。災難に遭ったお前を、救い得るのであれば」と話されました。ユダの人々が造った神々とは、バアルをはじめとする、木や石で造った偶像に過ぎません。災難に遭ったユダの人々を救うことなど、できないのです。これを救い得るのは、キリスト・イエスお一人なのです。ユダの民、イスラエルの民を救い得るのは、イエス様お一人なのです。

真の救い主
大坪章美

 
 

 

マタイによる福音書 23 章 1-12節

 

エレミヤ書2章は、エレミヤが預言者として神に召された時の王、ヨシヤの治世になされた預言です。エレミヤは、「主は、こう言われる。わたしはあなたの若い時の真心、花嫁の時の愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と語りました。神様は、かつての、主なる神ヤハウェと、イスラエルの民との、救いの契約を、結婚の契約として、語っておられるのです。 

24節で語られた、「荒れ野に慣れた雌ろば」とは、ユダの人々、エルサレムの人々の事を指しています。花嫁は、花婿である主なる神様、ヤハウェにのみ、愛と真実を捧げ、仕えなければならないのです。それが、主なる神のことを忘れ、異教の神々、アッシリアやエジプトの神々や、バアルを求めて礼拝しているのです。

この、制御不能の雌ろばの欲情のように、主なる神、ヤハウェに仕えようとしないユダの民は、憐れにも、滅亡へ突っ走ることになってしまいます。ここにあるのは、罪の力です。罪の力は、「神から来るものすべてに反対し、拒絶する」という形で、正体を現すのです。

27節には、「彼らは、木に向かって、『わたしの父』と言い、石に向かって、『わたしを産んだ母』と言う。」と、主なる神様が非難しておられます。真の神、ヤハウェの代わりに、木や石を礼拝することは、恥ずべきことでした。木や石で作った偶像が、災いに陥った時の救いにならないことは、分かり切ったことでした。
主なる神様は、預言者エレミヤの口を通して、皮肉を込めて、ユダの民に答えられました。「お前が造った神々は、どこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ。災難に遭ったお前を救い得るのならば」と、民が答えに窮するような問いを発せられたのです。

しかし、これは、ただ、イスラエルの民や、ユダの人々を、窮地に陥れることが目的で、仰っているのではありませんでした。主なる神様、ヤハウェのご意思は、これらの預言によって、イスラエルの民を、誤った場所から、救いの道へと、導くためのお言葉でした。

時代は変わって、マタイ福音書の23:1節からは、イエス様が律法学者と、ファリサイ派の人々を激しく非難される言葉が続いています。読み進めるに従って、激しい言葉で、彼らを非難されるのですが、それが、最初だけは、違っているのです。イエス様は、「律法学者達や、ファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」と言われ、続いて、「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また、守りなさい」と、言われたのです。

然し、イエス様は、律法学者たちや、ファリサイ派の人々を、無条件に肯定することはなさいませんでした。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである」と、記されています。

また、イエス様は指摘されました。律法学者達やファリサイ派の人々は、「宴会では上座、会堂では上席に座る事を好んで、また、広場では、挨拶を受けたり、“先生”と呼ばれたりすることを好む」と、言われました。

イエス様は、弟子達に、厳しく戒められました。8節以下です、「だが、あなたがたは、“先生”と、呼ばれてはならない」、「また、地上の者を、“父”と呼んではならない」と仰ったのです。また、「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師は、キリスト、一人だけである」と言われました。ここで言われている“教師”とは、「先立って進む、信仰の導き手」であることを意味しています。そして、その方は、キリストの他には、いないと、言われているのです。

イエス様は確かに仰いました、「あなたがたの教師は、キリスト一人だけである」と、教えられました。一方、わたしたちは、今日、預言者エレミヤが語った、神の言葉を覚えています。主なる神様は、ユダの人々に言われました。「お前が造った神々は、どこにいるのか。彼らが立ち上がれば良いのだ。災難に遭ったお前を、救い得るのであれば」と話されました。ユダの人々が造った神々とは、バアルをはじめとする、木や石で造った偶像に過ぎません。災難に遭ったユダの人々を救うことなど、できないのです。これを救い得るのは、キリスト・イエスお一人なのです。ユダの民、イスラエルの民を救い得るのは、イエス様お一人なのです。

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