過去の説教

愛と正義、慈愛と寛容

愛と正義、慈愛と寛容
大坪章美

コロサイの信徒への手紙 3 章 1-13節

ホセア書1:1節の後半に、「イスラエルの王、ヨアシュの子、ヤロヴアムの時代に、ベエリの子、ホセアに臨んだ、主の言葉」と、記されています。ちょうどこの時期に、預言者ホセアは、イスラエルの人々の悪を非難し始めました。ヤロヴアム二世は、政治的には成功して、国は繁栄したように見えましたが、その裏には、道徳的な腐敗と、犯罪が付きまとっていたのです。金持ちが貧乏人を圧迫しているのに、役人たちは、最も多くお金を出した者のために、法を曲げたのです。そして、特に、ホセアは、外国の神々の中でも、偶像バアルに捧げる礼拝を非難しました。

12:1節以下には、イスラエルの罪を非難される、ヤハウェの言葉が記されています。「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた」と預言しています。その意味するところは、「北王国イスラエルの罪は、誠実と信義を、偽りと欺き、に代えてしまった」と、北イスラエルを非難しているのです。ホセアから見た、父祖ヤコブの姿は、罪と咎にまみれて、神への欺きと高ぶりに満ちた、人間でした。ホセアが預言しているのは、このような、今、民が崇めている父祖ヤコブさえも、罪人であって、“神の恵み”を願っていた筈であったこと。そして、悔い改めの余地が残されていたので、ベテルでの神との出会いがあったことを、語っています。また、7節で、神の言葉を語っています。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と、語りかけています。今の北王国イスラエルのような、欺きと権力ではなく、「愛と正義」の上にこそ、約束を与えられた、神の民の生活があるのだ、と訴えています。

この、ホセアが語った神の言葉と同じ事を、私達は、使徒パウロが語っている事を知っています。コロサイの信徒への手紙は、パウロがローマの獄中にあった時に、現在のトルコにあったコロサイの教会に、誤った教えが広められている、という事を聞いたパウロが、それを正すために記したものであると言われています。
パウロは、2節で、「上にあるものを心に留め、地上のものに、心を惹かれないようにしなさい」と言っています。そして、その理由を、「なぜならば、あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に、神の内に隠されているからです」と記しています。キリスト者の“新しい命”とは、神の命に与る事であって、神の栄光にも与ることになるのです。しかし、その栄光は、終わりの時に、キリスト・イエスが栄光のうちに姿を現され、わたしたちも、キリストと共に現れるまで、隠されたままに、置かれるのです。

キリスト者は、洗礼を授けられて、“古い罪の体”から、“新しい人”に生まれ変わったのですから、“悪い思い”など、簡単に捨て去る事ができると思いがちですが、現実は、「悪い思いが、人間存在の根源に根を張っている」ものですから、常に悔い改め、悪い思いから脱却できるように、祈らなければならないのです。

パウロは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている、コロサイの信徒達、そして、現代のわたし達が、身に着けるべきものを示しています。第一に、憐みの心です。第二に、慈愛です。兄弟姉妹を慈しみ、親切にします。そして、第三に、謙遜を加えます。次に第四に柔和は、親切よりも広い意味です。第五は、寛容を身に着けるよう勧めます。寛容は、忍耐を前提とします。邪で、不条理なことがしばしば起こるところで、柔和を保つためには、忍耐が必要なのです。13節に述べられています、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と、勧めています。

しかし、「赦す」ということが、どれほど難しいことであるかは、多くの人が経験しています。人は、多くの場合、相手を赦し得ない自分の姿に、絶望するものです。ここにきて、ホセアの預言が、耳に響きます。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と語りました。ホセアが求める“愛と正義”によって、そして、パウロが求める“慈愛と寛容”を身に着けることによって、わたしたちは、神の救いを、達成することが出来るのです。

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