執り成しの祈り
大坪章美
エフェソの信徒への手紙 6 章 10-20節
預言者アモスは、紀元前七百五十年頃に北王国イスラエルで活動しました。第13代の王ヤロヴアム二世の治世下で、経済的物質的にもかつてない程の繁栄を見ました。然し、経済的な繁栄は、主に仕える事を蔑ろにすることに繋がりました。そして、更に大きな問題は、ヤロヴアム二世は、偶像礼拝に耽ったのです。
7章には、北王国イスラエルへの裁きの預言が二つの幻で語られています。まず一つ目の幻は、青草といなごの幻でした。大量のいなごが、全てを食い尽くしてしまいますと、農民達は、飢え死にするしかありません。茲でアモスは、民の為の執り成しの祈りを捧げて、神の赦しと憐みを、乞い願ったのです。そうしますと、「主は、これを思い直され、『このことは起こらない』と言われた」のです。次に、2つ目の幻が語られています。「主なる神は、このようにわたしに示された。見よ、主なる神は、審判の火を呼ばれた」と預言されています。厳しい夏の日照りです。大地の下の水源の涸渇は、畑の作物が枯れて、死に絶える事に繋がります。間一髪のところで、アモスは主に執り成しの祈りをしました。主なる神様は、この時も、思い直されて「このことは起こらない」と、約束されたのです。
時代は変わりますが、使徒パウロが、エフェソの信徒に手紙を書いています。6:10節の冒頭に、「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と記されています。それは、当時の世界の只中で、すでに述べられてきた“キリストの体”である教会の構成員として、“しっかりと立ち続けて行く”ように、励ます言葉であります。そしてパウロは、悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」と述べています。パウロが述べる言葉には、大切な意味が含まれています。この戦いは、敵を殲滅して、勝利をもぎ取るような攻撃型の戦いではありません。わたしたちは既に、キリストによって、勝利を得ているのですから、この“勝利”を防衛するための戦いが必要なのです。わたしたちが既に得ている勝利とは、エフェソの信徒への手紙の1:20節以下に記されています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられる、あらゆる名の上に置かれました」と記しています。今、わたしたちが与っているこの勝利は、いかなる者にも、侵害されてはならないのです。
パウロは、具体的な武具について語ります。「救いの兜」があります。“救い”は、過去の罪の赦しだけでは無く、未来に起きるであろう罪の、あらゆる攻撃に打ち勝つ力を与えてくれるのです。そして、最後に、“剣”です。パウロは、“霊の剣”と共に、これ迄の、あらゆるものに優る武器、即ち、“祈りの武器”に到達します。
茲には、パウロが、祈りについて重視している、三つの事が述べられています。まず、一つめ、祈りは、「絶えず目を覚まし、根気よく、継続されなければ」なりません。私達は、身辺に何か重大なことが予測されたり、或いは、起きてしまったりした時に、慌てて祈る傾向があります。然し、祈りは、人生の、あらゆる時に、継続して、捧げられなければならないのです。
次に、二つめ、「どのような時にも、“霊”に助けられて、熱心に祈らなければなりません。」祈りは、自分の能力を、神に集中することが求められています。そして、三つめに、「祈りは、すべての聖なる者たちのために」捧げられなければなりません。自分自身のために祈ると、同じくらい熱心に、共同体のために祈ることが必要です。
ここで、私達は、アモスの祈りを思い起こすのです。アモスの“執り成しの祈り”に、主なる神様が答えられたのです。そしてパウロは、エフェソの信徒たちへ、「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなさい」と勧めました。“執り成しの祈り”を、勧めているのです。 “執り成しの祈り”は、聞かれるのです。わたしたちも、兄弟姉妹、互いに“祈り合って”歩む者でありたいと、願っています。