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全ての人にほめられる時

全ての人にほめられる時
大坪章美

ルカによる福音書 6 章 20-26節

第二イザヤが活動したのは、バビロン捕囚の民が解放される少し前の紀元前550年頃から、ユダのエルサレム神殿が再建される紀元前515頃までのおよそ35年間でした。第二イザヤの預言は、40章から始まります。その最初の言葉は、「慰めよ、わたしの民を慰めよ、と、あなた達の神は言われる」と始まって、続いて、エルサレムに対して、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と」と呼びかけています。それは、服役の苦しみの終わりを告げるもので、解放の喜びの日の到来を告げる、神ご自身の御声でした。第二イザヤによる慰めと希望の告知は、51章から、いよいよ本格的になります。この箇所は、「わたしに聞け」、という命令で始まる三つの段落から構成されています。

そして最後の、第三の、「わたしに聞け」の御言葉は、7節で語られています。「正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられても、おののくな」と、呼びかけられました。 
驚くべき事に、南王国ユダから強制的にバビロンに連行された人々の中には、「今更、シオンの丘、エルサレムなどへ帰って、どうする」という、ユダへの帰国に否定的な捕囚民がいたのです。ユダへの帰国、エルサレムへの帰還を望まず、異教の地バビロンに残留を希望する者は多かったのです。バビロンでの苦役から解放されて、「さあ、ユダへ帰ろう。エルサレムに帰って、主の神殿を再建しよう」と喜び勇んで帰国の途につく、信仰篤い人々を罵り、迫害しようとするのです。主なる神様は、第二イザヤの口を通して、「そのような不信仰な者を、恐れてはならない」と、仰るのです。

次に、ルカによる福音書に目を転じましょう。イエス様がガリラヤで伝道をしておられた時のことです。イエス様が、山から下りて、平らな所で説教をなさったので、これから語られる説教は、“平地の説教”と呼ばれています。ルカはここで、イエス様が語られた“四つの幸い”と、“四つの災い”を記しています。
四つの災いについては、まず、一つ目の災いが、24節です、「富んでいるあなたがたは不幸である」と仰いました。「不幸である」と訳されている言葉の原文であるギリシャ語は、言葉にならない言葉、感嘆詞なのです。翻訳すれば、「あゝ」という言葉で、“悲痛”や“悲しみ”を表します。「富んでいるあなたがたは、あゝ」という、形容しがたい、失望、落胆の表現です。

この、「富んでいる人々」と同じように、「今、満腹している人々」にも、イエス様は、「あゝ」と、ため息を漏らされます。二つ目の災いです。そして、三つめの災いが、「今、笑っている人々は不幸である。あなたがたは、悲しみ泣くようになる」というお言葉です。

そして、四つ目の災いについて語られました、26節です。「すべての人にほめられる時、あなたがたは不幸である」と、戒められました。無責任な称賛の言葉ほど、信頼のおけないものはありません。イエス様は、そのような弟子たちに言われるのです。「あなたがたは、不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに、同じことをしたのである」と、言われました。

真の預言者は、世の喝采を浴びるようなことは考えません。むしろ、世の為政者に神の道を示し、迫害され、殺されさえしました。エレミヤがゼデキヤ王に神の言葉を伝えて、何度も死にさらされ、バビロンの捕囚の民は70年間は帰れない、と預言して民の憎しみを受けた時、偽預言者ハナンヤは、「バビロン捕囚は2年で終わる」と預言して、民衆からもてはやされました。しかし、その年の内に、主の罰をうけたのです。

弟子達も、み言葉を伝える者達も、世に迎合してはならないのです。茲に、第二イザヤが語った主の言葉が聞こえてきます。「正しさを知り、わたしの教えを心に置く民よ。人に嘲けられることを恐れるな。ののしられてもおののくな」と呼びかけました。「ユダに帰ろう。エルサレムに帰って神の宮を復興しよう」と立ち上がる神の民は、迫害を恐れてはならないのです。迫害を受ける人こそ幸いなのです。すべての人々にほめられる時ほど、危険な瞬間は無いのです。

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