過去の説教

審きの日

審きの日
三枝禮三

ルカ13章1-5節、マルコ15章33-39節

ご高齢の信徒が書いていました。「私は審きの日を主題とした礼拝説教を聴いたことがない。多分はじめて教会に来られた方、礼拝に出席するようになって日の浅い求道者に対する牧師の配慮であろうと私は思う。『やがて審きの日が来る。その時人々は神の前で右と左に分けられ、右の者は祝福され、左の者は、呪われてものとして永遠の火にいれられる』と話したら、初めて礼拝に出席した方はキリスト教とは恐ろしい宗教だと思うかも知れない。」流石です。然し、少なくとも主イエスだけは、審きについてはっきり語っておられます。

(ルカ13章1-5章)です。荒くれたガリラヤからの巡礼者たちが神殿の庭で羊を屠っていけにえを捧げようとしていた時、暴動でも恐れたらしいピラトが軍隊を出動させて虐殺し、その血をいけにえに混ぜたという事件が起こります。如何なる時の徴かイエスに問いかけようと人々がもたらした知らせでしょう。主イエスは答えられました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」主イエスは更に最近起こった事件を取り上げ、重ねて注意を喚起します。

シロアムの塔が倒れて十八人も死んだ事件です。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深いものだったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」繰り返された「決してそうではない」は、「悔い改めなければ、あなたがたも皆同じように滅びる」ということを強調している、はっきりした審きと警告の言葉です。

(イザヤ書53章4-10章)「主の僕」の歌の四番目です。10節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれた。」改定標準訳英語聖書では「しかも彼を打ち砕くことは主の御心であった。」実に容赦のない厳しい断言です。これがこの歌の中心です。8節「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた/彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/ …彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを」彼のことなど誰も知らなかった。気にもしなかった。彼の苦難も死も関係ないことだった。しかし、決してそうではない。5節「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのため/彼の打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」審判の鉄槌は私たちの背きと咎のためで、鉄槌はこの私たちの上にこそ下らなければならなかったはずなのに、ただ彼の上にだけ下ったのです。

ところで彼とは誰か?さまざまな説がある。イスラエル、エレミヤ、クロス王など。しかし、結局、主の僕について言われているすべてを満たし得る成就者は、キリストが来るまでは誰一人いなかったということだけは確かです。キリストが来てその十字架の死と復活によって初めてことは明らかになったのです。

(マルコ 15章33-34章)「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」遠藤周作は、これを詩篇 22篇の冒頭の言葉を引用したもので、神信頼と賛美に終わる詩編だ。絶望の叫びなどではないと言っています。しかし、前夜ゲッセマネの園で「この杯を取り去り給え」三度も祈った杯の十字架です。真昼の暗黒は切っても切れない父と子の関係すらも切れるかと思われる瞬間です。

そのただ中からの叫びは、そのままに受け取るべきでしょうか。それこそあの「しかも彼を打ち砕くことは主の御心であった」という情け容赦のない審判を受け止める叫びだったからであります。本来は私達の発すべき叫びのはずです。それなのになんの功もないのに無罪放免になっている。どうしてでしょう。ただ十字架の主のお蔭です。しかも真昼の暗黒のどん底で十字架の主は既に最後の審判までも先取りしていられたのかも知れません。だから明日最後の審判が来たとしても恐れたり慌てふためいたりする必要はありません。

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