過去の説教

神の前に豊かになる

神の前に豊かになる
大坪章美

イザヤ5章8-23節、ルカ12章13-21節

イザヤが主なる神様の召しを受けて、神の言葉を語り始めたのは、紀元前739年の事でした。その頃、ユダ王国は、富み栄え、支配者達は贅沢に憧れてしまい、むしろ、享楽的になっていました。主なる神への礼拝も、形式だけのものになり、豪勢な儀式だけが人目を惹きました。ここに、イザヤの預言が語られます。イザヤ書5:8以下は、災いの招きの詞とも呼ばれます。

災いのひとつは、「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている」と、語られています。ウジヤ王の存命中に国の防備を堅くして、櫓を建てて、水路を確保し、牧羊、羊を飼ったり、農業を盛んに行ったので、国は富み栄えました。端的に申しますと、成金が数多く現れたのです。この結果、貧しい者たちと、富める者たちとの間に深い溝が口を開け、貧しい者たちが、その中に沈んでしまう危険がありました。

イザヤの耳には、主なる神ヤハウェの、審判の叫びが聞こえてきます。イザヤは、「この多くの家、大きな美しい家は、必ず荒れ果てて、住む者が無くなる」と、預言しました。このような、人間の身勝手な“欲望”、特に、“財産や富を蓄積する”という欲望は、時代を超えて存在するものですが、イエス様も、群衆の一人から、遺産争いの調停を求められたことがありました。

ある時、群衆の一人が、イエス様に訴えました。「先生、私にも、遺産を分けてくれるように、兄弟に言って下さい」とお願いをしたのです。然し、この群衆の一人が、遺産分配の、何が不満でお願いしたのか、よく分かりません。唯一つ確実なのは、イエス様に、自分の遺産分配の調停を願い出た人の心の中が、「遺産相続の取り分を、もっと増やさないと納得できない。自分の幸せも、心の平安も、すべて、この一点にかかっている」という思いで、いっぱいになっていることを、イエス様が見て取られたことでした。今、自分が持っているもので満足せず、もっと欲しい、もっと欲しい、という思いを持ち続けることを、“貪欲”と、言います。

そして、イエス様は、ここで、譬え話をされました。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と、思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉をこわして、もっと大きいものを建てて、そこに穀物や財産をみなしまい、こう、自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先、何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』」と話されました。まさに、1年では、食べ切れない穀物や財産を手にしていたのです。自分ひとりには、有り余るほどの財産です。しかし、それを、隣り人に施そう、という考えは全く持ち合わせていなかったのです。

ただ、何かが、おかしいのです。何がおかしいか、と申しますと、この金持ちは、自分の財産が、そして自分の蓄えが、“自分の命の安全を保障できる”と妄想しているところが、間違っているのです。イエス様は仰いました、「然し、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、一体誰のものになるのか』と言われた」と、話されました。

この金持ちが、自分の財産も才能も、時間も命も、神様から預けられたものであるということに気付いていたら、思いがけない豊作の穀物も、財産も、その管理の仕方は、変わっていたことでしょう。主なる神様の為、隣り人のために用いることを考えたことでしょう。そうすれば、神様から、「愚かな者よ」と、叱責されることもなかったことでしょう。

また、この金持ちの行動が、かつて、イザヤが、「あゝ、災いだ」と、真っ先に嘆いた人々、「家に家を連ね、畑に畑を加えた、イスラエルの成金たち」とあまりにも似ていることに愕然とします。彼らもイザヤの預言に耳を傾けて、貧しい者への配慮を示していたら、東の大国から攻められ、捕囚の民とされる苦難を回避できていたかも知れません。イエス様は、仰っています、「神の前に豊かにならない者は、この通りだ」と言われました。神の為、隣り人のために有り余る財産を用いる者こそ、神の前に豊かになる人たちなのです。

アーカイブ