過去の説教

わたしの言葉は滅びない

わたしの言葉は滅びない
大坪章美

マルコによる福音書 13章 24-31節

第二イザヤは、バビロン捕囚の終わり頃に活動を始めて、捕囚の民に対して、「捕囚からの解放の時が近い」ことを告げ知らせて、彼らがエルサレムを中心とする祖国、ユダの地に帰国する事を力強く促したのでした。

イスラエルの栄光が回復され、祖国が昔の繁栄を取り戻す為には、捕囚の民が、故郷ユダに帰国しなければなりませんでした。然し、帰国する為には、即ち、捕囚から解放される為には、クリアーしなければならない条件がありました。それは、彼ら、イスラエルの民が捕囚の民とされたのは、彼らの“罪”の結果であった、ということです。捕囚の民が故郷ユダへ帰るためには、“罪の赦し”を、頂く必要があったのです。

そして、イザヤの40:1節には、「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなた達の神は言われる」と、語りかけられています。この御言葉の意味は、「イスラエルの捕囚の苦しみは終わった。バビロンで、罪を赦される為に“捕囚”という刑罰を科せられていた期間は終了したのだ。“赦されるのだ”という良きおとずれをもって、慰めよ」と命じているのです。神様は、罪を、あいまいなままにして、赦されるような方ではありません。罪はあくまでも、処理されなければなりません。

6節では、新しい呼びかけがなされます。一つの声が、第二イザヤに対して、『呼びかけよ』と、命令します。「肉なる者は皆、草に等しい」という声がありました。バビロニアをはじめとする諸国民が、決して、“永遠の存在ではない”という事を示しています。然し、わたし達には、「目に見えない希望」があります。第二イザヤに、「呼びかけよ」と命令した声の主は、「わたし達の神の言葉は、とこしえに立つ」と言っています。

この、第二イザヤが聞いた声、「わたしたちの神の言葉は、とこしえに立つ」という預言が、イエス様がお語りになった、「わたしの言葉は決して滅びない」という言葉に依って成就していることに、わたしたちは、神の摂理の無限の深さを感じずにはいられません。

或る日、イエス様がオリーブ山で、エルサレム神殿の方を向いて座っておられた時、弟子達のうち、4人が、イエス様に、密かに尋ねたと言うのです。マルコ13:4節です、「仰ってください。その事はいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現する時には、どんな徴があるのですか」と尋ねています。弟子達がイエス様にお尋ねした、「その事が、全く実現する時には、どんな徴があるのですか」という問いは、「“世の終わりが来る時の前兆”となるような、“徴”として、どんな事が起こるのですか」という問いでありました。

イエス様は、今まで、エルサレムという局地的な艱難の到来について話されましたが、これから、一定の時が過ぎた後、全宇宙に係りのある崩壊、という終末の時について話されました。天地創造以来の、古い世界の終わりが告げられています。特に、25節に記された、「天体は揺り動かされる」という言葉は、原文に忠実に訳しますと、「天にある諸々の力は、揺り動かされる」という意味になります。「天にある諸々の力」とは、神と人間との間にあって力を奮う、宇宙的な悪霊の勢力を指しています。しかし、これらの力が“揺り動かされる”ことによって、その支配は終わります。

そして、それに代わって、「人の子が、大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来る」のです。イエス様は、結論を語られました。30節以下です、「これらのことが皆、起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と、言われました。「天地は滅びる」即ち、わたしたちは、目に見えるものは、どれほど堅固な神殿でも、城壁でも、いずれ滅び去ることを学びました。

それでは、私達が目を留めるべきは、“何に対して”、なのでしょうか。それは、「イエス様のお言葉」です。イエス様のお言葉で、成就しないものはないのです。

茲で私達は思い至ります。第二イザヤが語った神の言葉、「草は枯れ、花はしぼむが、私達の神の言葉はとこしえに立つ」。まさにこの預言が、イエス様のお言葉、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というお言葉によって実現している事に気付くのです。

アーカイブ