過去の説教

時代のしるし

時代のしるし
大坪章美

マタイによる福音書 16 章 1-4 節

アモスという預言者は、紀元前750年頃に活動した人で、テコアの出身でした。アモスが、神の召命を受けた頃には、しばしの繁栄に浮かれて、北王国イスラエルの支配階級は、傲り高ぶって、貧しい人々を苦しめていました。アモスが、ベテルの聖所で預言したのは、偶像礼拝を続ける聖所と、祭儀の堕落を批判して、主なる神にとって大切なことは、“祭り”ではなく、“正義を行うこと”であると、説いたのでした。主なる神様は、何度も何度も、「偶像礼拝を止めて、わたしの方に帰って来なさい」と呼びかけられているのです。それでも、なお、帰って来ようとしないイスラエルの民に、主なる神様は、悲しみを表わしておられます。

五つの事例をもって、神様が示した、立ち帰りのきっかけを、ことごとく無駄にして、拒んだのはイスラエルの民ですから、イスラエルの民は、ただ、燃える怒りを持って臨まれる神に合うしかないのです。「イスラエルよ、わたしはお前を、このようにする」とは、「イスラエルを滅亡させること」を意味しますが、その運命を通してこそ、イスラエルは、自分の神と出会わなければならない、と言っています。
「見よ、神は山々を造り風を創造し、その計画を人に告げられる」と歌われます。人間が神に立ち返る為には、神の霊が無くてはなりません。神の霊を頂いて、神に立ち返り、神のご計画を示され、神の訪れの時を信じなさい、とアモスは神の言葉を語っているのです。
 時代と場所は変わって、イエス様がガリラヤ湖の南東、デカポリスの岸辺で、4千人の群集に食事を与えられた後のこと、マガダン地方へ、舟で渡られました。そこへ、ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエス様を試そうとして、「天からのしるしを、見せてほしい」と願ったというのです。

ユダヤ人は、常に、預言者や、指導者たちに対して、その“教えの正統性”を証明するための“しるし”を要求しました。イエス様はお答えになりました。2節です、「あなたたちは、夕方には、『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には、『朝焼けで、雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように、空模様を見分ける事は知っているのに、“時代のしるし”は見る事ができないのか」と言われたのです。この事は、紀元前750年頃、アモスが北王国イスラエルの民に神の言葉を語った時と同じ状態でした。主なる神様はアモスの口を通して語られました、「見よ、神は山々を造り、風を創造しその計画を人に告げられる」と語っています。イエス様も、「空模様を見分ける事は知っているのに、“時代のしるし”は、見る事が出来ないのか」と言われました。まさに彼らは、何度神様から試みられても、頑なに、真の神に立ち帰る事なく、滅ぼされてしまった、北王国イスラエルの民と同じ道を歩んでいるのです。

そして、イエス様は、マタイ福音書16:4節にありますとおり、「よこしまで、神に背いた時代の者たちは、“しるし”を欲しがるが、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」と言われて、彼らを残して立ち去られました。

人間に過ぎないファリサイ派の人々や、サドカイ派の人々が、イエス様に、「天からのしるしを見せて欲しい」と要求して、その“しるし”によって、イエス様がメシアであるかどうかを判定する権限を持っているなどと考える事自体、偶像崇拝者に他ならないのです。
預言者ヨナは、自分が乗り合わせた舟が暴風雨に巻き込まれ、沈むほかなかった時に、乗組員達に命じて、自分を海に投げ込ませて、難破を防ぎました。そして、自分は大きな魚に呑みこまれて、三日間腹の中に居てから、陸に吐き出される、という出来事がありました。

この、ヨナが遭遇した出来事は、イエス様が人間の罪を負って下さり、十字架の死を遂げられ、三日間、陰府に降られた後、復活して弟子達の前にお姿を現わされる事を、予告するものでした。ファリサイ派や、サドカイ派の人々、ユダヤ教の指導者達がイエス様に、“天からのしるし”を求めましたが、「ヨナのしるし」つまり「イエス様の死と復活」以外には、天からのしるしは、与えられないという事を、伝えられたのです。

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