過去の説教

永遠に続く愛

永遠に続く愛
大坪章美

ローマの信徒への手紙 8 章 31-39 節

モーセは、ヨルダン川の東側で、イスラエルの全ての人々に告げて言いました。「わたしは今日、既に120歳であり、もはや自分の務めを果たす事はできない。主は、わたしに対して、『あなたは、このヨルダン川を渡ることが出来ない』と言われた」と、語りました。

モーセは、自分の立場を良く弁えていました。全イスラエルの民を率いて、麗しの地カナンへ導き入れるのは、ヌンの子ヨシュアであると、ここで後継者を指名したのです。然し、イスラエルの真の指導者は、神ご自身なのです。主が共におられ、主が共に進まれるのです。進行方向へのかじ取りは主がなさいます。ヨシュアは、主のかじ取りに身を委ねていれば良いのです。大切なことは、「信じて、疑わないこと」なのです。

モーセがヨシュアに語った言葉は、「主があなたに先立って行かれ、共におられ、決して見捨てることなく、見放すことも無い」というお告げです。これは、“神の愛”に他なりません。

かつて、キリスト教の歴史の中では、紀元130年頃に、小アジア、今のトルコで生まれたマルキオンという異端の神学者がローマで活躍していました。マルキオンは、「旧約の神は怒りの神であり、嫉妬する神である」と決めつけて、また、「新約の神は慈しみの神であり、愛の神である」と断定して、キリスト教徒にとって、旧約聖書は必要ではない、と主張しました。いわゆるマルキオン主義と呼ばれる異端思想です。これは、とんでもない間違いでした。

何故なら、旧約の神は、イエス・キリストの父なる神であり、その本質は、“愛”であるからです。「イスラエルの民の先頭に立って導かれ、見放さず、見捨てず、わたしが戦うから、畏れてはならない」と激励して下さる、まさに、主なる神は、“愛”そのものでした。そして、主なる神様の愛は、天地創造以来、現在に至るまで、変わることなく、続いているのです。

この、“神の愛”について、パウロが語っています。パウロ自身、最初は、旧約の神を重視するあまり、イエス・キリストとその群れを、旧約の神の権威を犯すもの、として迫害していた人物でした。それが、イエス様が十字架に架かって死なれた後、2〜3年経った頃、いつものように、ユダヤ人キリスト者を捕えて迫害する目的で、シリアのダマスコへ向かう道の途中で、イエス様の天からの御声を聞いて、回心して、イエス様こそ“救い主”であると、信じた人です。

紀元65年頃、パウロ自身も既に60才に近い年令でした。第3回伝道旅行の終わり頃、パウロは、コリントの教会に3か月ほど滞在したのですが、ここで、ローマの信徒への手紙を書きました。パウロは、「では、これらの事について何と言ったら良いだろうか」と記しています。「これらの事」とは、直前の28節でパウロが語ったことを指しています。そこには、「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く、ということを、わたしたちは知っています」と、記されております。本来、わたしたちには、未来のことは、分かりません。また、それと同時に、自分にとって、何が最善のことなのか、も分かりません。場合によっては、最も避けなければならないものを、選び取ってしまうこともあるのです。このような時に、わたしたちを助けて下さるのが、聖霊です。聖霊が、わたしたちに代わって、神、即ち、“人の心を見抜く方”に取り次いで下さるのです。

そして、この度、主なる神様が、人間の罪を赦す為に、最大の真実を示されたのが、御独り子イエス・キリストを十字架につける事により、死に渡された事でした。この、神の真実によって、わたし達に、二つの恵みが与えられています。一つは、神が、キリスト・イエスの死によって、わたし達人間の罪を赦された以上、他の一体誰が、わたし達を、罪や刑罰に定めることができましょうか?と言っている事です。そして、もうひとつは、わたし達の信仰は、「死からよみがえり、永遠に生きておられるイエス様」を、信じることにあります。この世の、いかなる者も、このキリストの愛から、わたし達を引き離すことはできないのです。

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