過去の説教

すべての人が生かされる?

すべての人が生かされる?
大坪章美

コリントの信徒への手紙一 15 章 20-28 節

紀元前605年にハランの近くのカルケミシュにおきまして、バビロニアとエジプトの間で、歴史に名高い大決戦が行われました。エジプトとの決戦に勝利したバビロニアの王ネブカドネツァルは、エルサレムを攻撃しようとしましたが、父親のナボポラッサルがバビロンで急死した為、一時、国に帰らなければならなくなりました。このままバビロニア軍が帰ってしまうと、ユダの王エホヤキムは、また、いつエジプトに寝返るかも分かりません。そこで、ネブカドネツァルは、人質を取ることにしたのです。ユダの国王エホヤキムの一族や、貴族から数人の者がバビロンに連れて行かれました。この時、バビロンに連れて行かれた数名の貴族の中に、ダニエルという名前の少年がおりました。

その後、何年かして、ダニエルは神様から、これから起きることの幻を見せられました。12章では、人間の未来に対する預言が語られています。「その時」まで苦難が続く、と語られます。苦難に耐えたイスラエルの民、つらい、厳しいことに耐えたイスラエルの民には、神様に救われる、素晴らしい未来が待っている、と言っています。そして、2節には、「多くの者が地の塵の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、或る者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と預言されています。父なる神様の力は、「地上の命が終わった後も、変わりなく続く」という約束が語られています。

ダニエルが、このような、未来を示す幻を見てから、550年ほどの年月が過ぎました。イエス様は、紀元30年にゴルゴタの丘の上で十字架に架けられ、人間の罪をご自分の身に引き受けて下さり、わたしたち人間の全ての罪を赦すために死んで下さいました。そして3日目の日曜日の朝早く、婦人たちがイエス様のご遺体に香料を塗るために墓に来てみますと、墓は内側から開かれ、墓の入り口に置いてあった丸い大きな石は脇に転がされ、イエス様のご遺体が納められていたお墓の中は、空っぽになっていたのです。

イエス様の遺体が墓の中に無かった、ということは、「イエス様が復活された」、「イエス様が生き返られた」と言うことを意味しています。実際、マルコによる福音書の16:9節には、「イエスは、週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現わされた」と書かれています。

イエス様が十字架につけられて死なれてから3年程が経った時、パウロは、エルサレムからシリアのダマスコへ行く途中の道で、昼間に天からのイエス様の御声を聞いてイエス様を信じるようになった弟子でした。

パウロは、自分の目で、復活のイエス様にお会いしたことは無いのに、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活した」と断言しています。そして、パウロは、イエス様が復活されたのは、たまたま起きた、偶然の出来事ではないことを語り始めます。これまでの人類の歴史において、ただ一回起きた出来事を帳消しにする、正反対の出来事が初めて起きたのです。人類の歴史上、ただ一回起きたこととは、エデンの園で神様がアダムに対して、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と命令されたのに、アダムは、善悪の知識の木の実を食べてしまったことでした。このアダム一人の罪の結果、すべての人間に、“死”が入り込んだのです。パウロは、「この出来事と正反対に、イエス様お一人が、人間の罪を全てご自分の身に負って死んでくださったことによって、すべての人が生かされるようになった」と言っています。ただ、わたしたちは、「すべての人が生かされる」という言葉を、誤解しないようにしなければなりません。23節でパウロは言っています、「キリストが来られる時、キリストに属している人たちが生かされる」と限定しています。

ここにきて、わたし達は、あのダニエルが幻で見た預言が、ここに成就している事に気づきます。ダニエルは語りました、「多くの者が地の塵の眠りから目覚める。或る者は永遠の生命に入り、或る者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。然し、永遠の命に入るのは、全ての人ではありません。それは、イエス様が再び来られる時に、“イエス様を信じる人々”に限られるのです。

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