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天のエルサレム

天のエルサレム
大坪章美

ヘブライ人への手紙 13 章 7-16 節

エッサイの子、ダビデは、イスラエルの全部族から敬愛され、40歳の時、紀元前一千年、全イスラエルの王として即位しました。ダビデは、王宮に住むようになりましたが、心に掛かることがありました。ある日ダビデは、「自分の手で、神殿を建築したい」との希望を、預言者ナタンに伝えたのです。しかし、その夜、ナタンに臨んだ神の言葉は、意外なものでした。主は、「ダビデに告げよ」と言われました。歴代誌上の17:4節です、「わたしのために住むべき家を建てるのは、あなたではない。・・・・あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座を、とこしえに、堅く据える」と告げられたのです。

ダビデは、その後、神殿造営のための準備に取り掛かります。22:5節には、「『わが子ソロモンは、主のために壮大な神殿を築き、その名声と光輝を万国に行き渡らせるためには未だ若くて弱い。わたしが準備しなければならない』と言って、死ぬ前に多くの準備をした」と、記されています。ダビデは、「わたしたちの父なる神よ」と呼びかけ、「力ある者、偉大な者は全て、主から出ている」と主を讃えて、そして、それを、自分自身のことへと導きます。ダビデは、訴えています、「わたし達は、わたし達の先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民に過ぎず、移住者に過ぎません。この地上におけるわたし達の人生は、影のようなもので、希望はありません」と、祈っています。

それから、一千年余りも、時が流れて、ヘブライ人への手紙の著者が、ダビデの祈りと同じような勧めを、記しています、13:14節です、「わたし達は、この地上に、永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」と、記しています。そして13:7節で、「あなた方に神の言葉を語った指導者達のことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりを、しっかりと見て、その信仰を見倣いなさい」と記しています。

著者が示す過去の指導者達は、その生涯と死に方で、真の信仰を表しました。人々に、どのように生きるか、を示し、最後に、どのように死ぬか、を示しました。真の指導者は、後に続く人達に、模範と霊感を与えます。然し、地上の指導者は、現れてはまた去って行きます。著者は、地上の指導者とは異なり、真の指導者であるイエス様の生涯には終わりが無く、又、地上では様々な教えが存在しますが、「イエス・キリストの教えは、永遠に変わることが無い」と、主張しています。

14節の、「わたしたちは、この地上に、永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」と言う言葉は、かつて、ダビデ王が祈った祈り、「わたしたちは、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません」という言葉と良く似ています。この地上では、キリスト者は、古い族長たちと同じように、故郷なき放浪者に過ぎないと祈っています。

キリストを信じる者は、このやがて過ぎ行く地上では、ダビデが祈ったように、故郷を持たない放浪者のような者です。ダビデは、子々孫々に伝える確かな物として、エルサレムの都の中心に、永遠に続く祈りを持って、神殿の造営を計画しました。然しヘブライ人への手紙の著者は、それさえも、“過ぎ行く物”と考えます。著者が探し求めるのは、「来るべき都」です。既に存在する「天のエルサレム」です。イエス様は、私達の導き手として、既に「来るべき都」に入っておられます。著者は、「だから、イエスを通して、讃美の犠牲、即ち、御名を讃える唇の実を、絶えず神に捧げましょう」と勧めています。著者は、神に犠牲を捧げる義務を語っています。それは、二つあります。一つは、「賛美の犠牲」です。「イエスを通して」即ち、十字架の贖いを成し遂げられて、現在天におられる大祭司、イエス様の執り成しによって、神を崇める“賛美の犠牲”を捧げるのです。そして、二つ目が、「良い行いと、施し」です。イエス様が唯一の掟として残された、「兄弟姉妹互いに愛せよ」との御言葉に基く「愛の行い」です。今週も、新しい心で、イエス様を通して、「賛美」と「良い行い」の犠牲を、捧げ続けたいのです。

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