過去の説教

鍛錬の後、立ち上がる

鍛錬の後、立ち上がる
大坪章美

ヘブライ人への手紙 12 章 4-11 節

エレミヤが預言者として、神に召されたのは、南王国ユダの第16代の王ヨシヤの治世、紀元前627年の事で、未だ20歳に満たない年令の時でした。エレミヤは、エルサレム神殿で主の言葉を語りました、7:6です、「異教の神々に仕えることなく、自らの道と行いとを正し、互いに正義を行い弱者を虐げず、自ら災いを招いてはならない」とユダの人々に伝えたのです。

10:17で語られた、「包囲されて座っている女よ、地からお前の荷物を集めよ」との神のご命令は、「敵、即ち、バビロニアの軍隊に包囲されたエルサレムから、捕虜となって、住み慣れたエルサレムを離れるために、自分たちの衣類をまとめよ」と、神は言われるのです。

然し、22節からエレミヤの預言の調子が急に変わります。現実味を帯びます。エレミヤは語ります、「声がする。見よ、知らせが来る。北の国から大いなる地響きが聞こえる」と語ります。北の国とはバビロニアです。大いなる地響きとは、戦車部隊の馬の轡を並べた進軍です。エルサレム、そしてユダ王国の破局が迫っている、と言っています。ユダの滅亡を目の前にして、エレミヤにできるのは、唯、執り成しの祈りです。

こうして、エレミヤは、自分の行いではなく、ただ、主なる神様のご性質に訴えるのです。24節です、「主よ、わたしを懲らしめてください」と願っています。そして、ただし、「御怒りによってではなく、“義によって”“正しい裁きによって”わたしを懲らしめて下さい」と、訴えています。 “懲らしめ”であれば、その後には、希望があります。・・再び、立ち上がる希望があるのです。神様が望まれるのは、「罪人の死」ではなくて、「罪人が立ち帰って、生きること」です。“神の懲らしめ”は、神が、民のために備えておられる、“新しい道の出発点に立つ”ための手段でもあるのです。

それから六百数十年もの時が流れました。ヘブライ人への手紙の著者が、エレミヤと同じように、“鍛錬”について語っています。著者は、手紙の読者達が、「気力を失い、疲れ果ててしまわないように」、人間の罪を忍耐された、イエス・キリストの事を、よく考えなさい、と言っています。そして、その理由を、一つは、「あなた方は、未だ、罪と戦って血を流す迄抵抗した事がない」という事を指摘しています。もう一つは、著者は読者に対して「今、受けている困難と、イエス様が受けられた苦難とを比べて見よ」と言っています。

著者は、「困難、苦難を喜んで耐え忍ぶべき理由」としてもう一つの根拠を記します。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない」と言っている事です。著者が言うのは、「苦難は、訓練として神から与えられるものである」という事です。「主から懲らしめを受けない者、主の訓練を受けない者は価値がない」と言っています。それは、「主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を、皆、鞭打たれるからである」と記しています。

著者は12:11節で言っています、「およそ、鍛錬と言うものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものに思われるのですが、後になると、それで鍛え上げられた人々に、“義”という、平和に満ちた実を結ばせるのです」と記しています。ここに預言者エレミヤが書き残した、預言の成就を見るのです。エレミヤは預言しました、「主よ、わたしを、懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって」と祈りました。エレミヤも、主に、懲らしめを求め、主の鍛錬を受けることによって、その後に、希望を期待しました。そして、その“懲らしめ”を、正しい裁きによってなされるよう、望みました。

同じように、ヘブライ人への手紙の著者も、「鍛錬と言うものは、後になると、鍛えられた人々に、“義”という、平和に満ちた実を結ばせる」と記しています。そして、「“義”という平和に満ちた実」という言葉は、「“正しさ”という、平和に満ちた実」とも訳されます。わたしたちは、地上の生活に於いて、時として様々な鍛錬を受けますが、それによって、「主に愛され、主によって、より良く計画された道への出発点」に立たされた、と考えて、希望に溢れて歩みたいものです。

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