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主は求める者は赦される

主は求める者は赦される
大坪章美

ルカによる福音書 19 章 1-10 節

南王国ユダの13代目の王ヒゼキヤは、全イスラエルの祝祭行事として、過越しの祭を行うよう呼びかけました。呼びかけたのはユダのみではありません。北王国の部族であるエフライムやマナセにも使いを出しました。歴代誌30:14には、「第二の月の14日に、彼らは過越しのいけにえを屠った」と記されています。

18節には、「ヒゼキヤは、彼らの為に祈って言った」と記されています。南王国ユダの国内の人々以上に、かつての北王国イスラエルからはるばるやって来た人々は、身の清めを行っていませんでした。それを見たヒゼキヤ王は、執り成しの祈りを捧げました。「恵み深い主よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、聖所の、清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです」と、祈ったのです。

然し主は、あらゆる人々を、特に、失われた人々が立ち返ってご自分の許に来ることを、強く願っておられます。細々した規則よりも、「主に応答して、主を求めようとする心」を神様は重んじておられるからです。

時代は随分降ります。イエス様は、カファルナウムを出発して、一路、エルサレムを目指して歩き始められました。サマリアを通り過ぎて、やがてエリコの町へ入られました。当時、パレスティナの人間で、最も人々の憎しみを買った人々が徴税人でした。権利を買い取った徴税人は、ローマには、請け負った額の税金さえ取り立てて納めれば、それ以上は、取り放題という、ずさんな管理をしていました。ですから、徴税人は、盗賊や、人殺し、と同類と見做されていましたし、ユダヤ教の会堂からも、締め出されていたのでした。

茲に、ザアカイという徴税人の頭が居て、「金持ちであった」と説明されています。そして、このザアカイにも、「メシアとも言われている、イエスという預言者がエリコに近づいている」という情報が齎されました。

その知らせを聞いたザアカイの頭の中には、さまざまな考えがよぎりました。私たちは、いつも、今も、何かしら、自分の心の中に、思い煩いを持っています。

ザアカイも、そうでした。徴税人になり、今では、頭にまで成り上がっていました。然し、沢山のお金を儲けて、何不自由なくなったところで、初めて、「お金だけが人生ではない。人生には、お金ではどうにもならないことがある」と言う事に、気が付きました。

3節には、「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて、見ることが出来なかった」と記されています。それでもザアカイはめげませんでした。イエス様を先頭にした弟子たち一行が進んでゆく、はるか先の方まで先回りして、通りの方に枝を張り出したいちじく桑の木に登ったのです。

すると、驚いた事に、イエス様は上を見上げて、「ザアカイ、急いで下りてきなさい。今日はあなたの家に、是非、泊まりたい」と声をかけられたのです。彼は、イエス様に呼ばれて、いちじく桑の木から下りて来る間に、すっかり人が変わっていました。立ち上がって、イエス様に言いました。「主よ、私は財産の半分を、貧しい人々に施します。又、誰かから、何か騙し取っていたらそれを四倍にして返します」と宣言したのです。

ザアカイは、自分の財産上の償いを、法が要求している以上の事をしようと決心しました。そして、それによって、自分が生まれ変わった事を証明したかったのです。そして、イエス様は、「人の子は、失われた者を探して、救うためにきたのである」と言われました。

人は皆、気がかりなことを、心の中に抱えています。ザアカイの場合は、自分が、不正に取り立てた税金の上積みで、今は、大金持ちになっていることでした。人間、だれしも、そのようなことは、心に持っています。人が、そのような思いに捉われる時、その人は、神様から見て、「失われた者」の状態になっています。

そのような時には、イエス様に告白して、お祈りすることです。それは、750年も前に、身を清めないで神殿礼拝に参加した、北王国のユダヤ人たちのために、ヒゼキヤ王が執り成しの祈りを捧げたことと同じ、“神の救い”なのです。「神の前に出て、礼拝する」という“決意”が、救いをもたらすのです。

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