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謙遜な者は高められる

謙遜な者は高められる
大坪章美

ペトロの手紙一 5 章 1-7 節

5:1節で、ペトロは、自らを、「長老のひとり」と名乗ることによって、“長老職”というものが、かつてはキリスト・イエスの使徒たちが担っていた務めを果たすべき存在であることを、示そうとしています。そして、ペトロが語りかけている相手は、小アジアの北東部に建てられた諸教会の“長老たち”なのです。ペトロは、小アジアの諸教会の長老達に勧めています。52節です「あなた方に委ねられている、“神の羊の群れ”を牧しなさい」と言っています。ペトロがこのように語っている時に、その心の中には、かつて、イエス様ご自身がペトロに語り掛けて下さったお言葉を思い浮かべていたであろう事は想像に難くありません。

ペトロ達7人の弟子が、ティベリアス湖の湖畔で漁をした時でした。復活のイエス様が現れて、朝の食事を共にしたのです。その食事の後、ヨハネによる福音書21:15節に記されています、「イエスは、シモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人達以上に、わたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、私があなたを愛している事は、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を、飼いなさい』と言われた」と記されています。ペトロがイエス様から、「わたしの小羊を飼いなさい」と、牧者に任命されたのは、ペトロのイエス様への“心からの愛”に対する報酬でありました。「キリストの群れである羊を飼う」という特権は弟子達が受ける最大の栄誉でした。

長老の職にある者、或いは神がわたしたちに与えられた業を行う者が、ペトロの勧めのように、務めを果たしたならば、「この人たちは、勝利の冠を受けるであろう」と、ペトロは言っています。長老職も、神が与えられた奉仕の業を行う者も、皆、牧者です。ペトロは言っています、「そうすれば、大牧者がお見えになる時、あなたがたは、しぼむことのない、栄冠を受けることになります」、と、記しています。マラソン競走の勝利者が受けるような、すぐに朽ちてしまう名誉の冠とは異なって、輝く、栄光に満ちた、朽ちることの無い冠を受けることになるのです。これは、キリストが再び来られる時、キリストの再臨の日に与えられる大きな報いのことなのです。

ペトロは、5節からは、「若者達」に対する勧めの言葉を語り始めます。当時の教会の集会の中で、若い男性のグループが活発に活動して、ある程度、責任ある奉仕に与っていた事が想像されます。例えば、青年達が集会の仕事で独立した考えをもって、改革しようとする場合などがあったのでしょう。もし議論になった場合、ペトロは、あらゆる決定の最終責任は長老達が負うものと判断しているのです。そして、最も大切な事は、長老達も、若い人達も、「皆、互いに、謙遜を身に着けること」であると言っています。ペトロは、「長老も若い者も、神に対して取る態度を、兄弟姉妹に対しても適用しなければならない」と、勧めています。

ペトロは、この“謙遜の教え”を、旧約聖書の箴言3:34節を引用する事によって、決着をつけようと試みます。そこには、「主は、不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る」と記されています。私たちは、へりくだらなければ、恵みを受ける事はできません。何故ならば、「恵み」とは、もともと「受けるに値しない者に与えられる神の祝福」です。ですから、「自分は、神の恵みを受けるに値しない者だ」という謙遜の心、自己認識の無い所には、神の恵みも現れないのです。

キリスト者は、人生経験に、決して恨み言は言いません。決してこれに反抗するようなことはいたしません。何故ならば、神の全能の御手が、わたしたちの人生航路の舵を握っていて下さり、神様が、わたしたちの歩みを定めておられることを、知っているからです。

ペトロは、「思い煩いは、何もかも、神にお任せしなさい。神があなたがたのことを、心にかけていて下さるからです」と勧めています。わたしたちは、不安と思い煩いを、神様に祈って、お委ねするのです。神様は、わたしたちの生活に関心を持って下さり、困難と不安とを取り除くために、わたしたちの考えの及ばない、手段と道とを、備えて下さるのです。

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