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聖霊の注ぎ

聖霊の注ぎ
大坪章美

ルカによる福音書 23 章 44-48 節

時は紀元30年の春、ニサンの月の15日。場所はエルサレム城壁の外、西側にある丘、ゴルゴタと呼ばれる丘の上でした。ルカによる福音書によれば、既に、昼の12時頃であったと言います。

また、続いて45節には、「神殿の垂れ幕が、真ん中から裂けた」と記されております。「真ん中から裂けた」ということは、至聖所と聖所を仕切る垂れ幕の真ん中に切れ目が入り、穴が開いたことを表しています。ルカは、このことによって、「イエス様が、息を引き取られる前に、地上の闇の中から、裂かれた神殿の垂れ幕の真ん中を通して、天を見上げて、父なる神様と対話されたことを象徴的に語っています。

次に、イエス様は、十字架の上での最後の言葉を大声で叫ばれました。即ち46節に、「『父よ、わたしの霊を御手に委ねます。』こう言って、息を引き取られた」
と記されています。これは、イエス様が、自らのお身体を犠牲として、父なる神様にお捧げする、即ち、“自己奉献の祈り”として知られています。イエス様が、息を引き取られる前に仰った、「わたしの霊を御手にゆだねます」という個所の、“ゆだねる”という言葉は、ギリシャ語の意味は“置く”という意味です。

しかし、イエス様によって、父なる神の御手の中に置かれた“イエス様の霊”は、一体どうなったのでしょう。福音書記者ルカは、ルカによる福音書を書き上げた後、ルカによる福音書のパート?とも言うべき、「使徒言行録」を著しました。そのルカが著した、使徒言行録の2章1節、ここには、イエス様が復活されてから50日後の聖霊降臨日、弟子たちが、聖霊に満たされて、めいめいが他所の国の言葉で語り出したことが、記されています。

そこで、ペトロが他の弟子11人と共に立ち上がって、説教を語り出したのです。ペトロは、イエス・キリストの復活を、“ダビデの預言の成就”、と語りました。ダビデはいつも主と共にありました。死も、二人の仲を引き裂くことはなかったのです。ダビデは、「キリストの復活」を知っていたのです。そして、このことを、ペトロは、大胆に、恐れず、語ったのでした。2:32節です、「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは、神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて、注いで下さいました。あなたがたは、今、このことを見聞きしているのです」と告げたのです。ペトロが語りました、「約束された聖霊を御父から受けて」の“御父から受けて”の原文の意味は、「御父の側から受け取って」という意味です。

ここで、ルカによる福音書、23:46節のイエス様の、最後のお言葉、との繋がりが出て来ました。イエス様が、息を引き取られる直前に大声で叫ばれた、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って、神の御手に置かれたご自身の霊を、今、復活されて50日後の聖霊降臨日に、父なる神様から受け取って、弟子たちに注いで下さったのでした。このように、聖霊降臨の出来事は、イエス様が十字架上で息を引き取られる間際に、父なる神の手の中に置かれた霊を、復活されたイエス様が再び、御父から受け取って、弟子たちに注がれた、という、ルカの福音書では、首尾一貫した意味づけがなされていることが、分かります。

次に、47節です、百人隊長はこの出来事を見て、「『本当に、この人は、正しい人だった。』と言って、神を讃美した。」と記されています。なんと、百人隊長、つまりイエス様を十字架に着けた、その本人が、イエス様の事を、「この人は、正しい人だった」と告白しているのです。つまりルカは、次のように主張したかったのです、「イエス様は、正しい人であって、断じて、罪人などではなかった。」という事です。ルカの念頭には、イザヤ書53:12の、「多くの人の過ちを担い、背いた者の為に執り成しをしたのは、この人であった」との預言が思い浮かべられて、殊更にイエス様を、「義なる人であった」と訴えたかったのです。

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