過去の説教

永遠に続く慈しみ

永遠に続く慈しみ
大坪章美

コリントの信徒への手紙二 9 章 6-15 節

パウロがエフェソで、コリントの信徒たちに対して、「涙ながらに書いた手紙」を書いて、弟子であるテトスに持たせ、コリントに派遣した結果は、パウロの不安と心配をよそに、「パウロへの信頼を、以前の通り、取り戻した」という、真に喜ばしい朗報で、決着を見たのでした。

こうして、コリントの信徒たちが、一時期の不和を乗り越えて、再びパウロを信じ、慕い、尊敬するようになったことを受けて、パウロが喜びの内にコリントの信徒たちへ書いた手紙が、「和解の手紙」と呼ばれるもので、コリントの信徒への手紙二の1章から9章までに残っています。

9:6節以下は、まさに、パウロが、コリントの信徒たちに再び受け入れられたことを知って、喜びの内に書いた、「和解の手紙」の一部です。そして、8章9章は、パウロが、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金の主旨を述べているところです。

8:3節以下では、「わたしは証ししますが、彼らは、力に応じて、また、力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための、善意の業と奉仕に参加させてほしい、としきりにわたしたちに願いでたのでした」と、記しています。そして、この事実によって、アカイア州にあるコリントの教会の信徒たちの誇りと愛を呼び覚まして、エルサレム教会への募金に応じるよう訴えているのです。

9:1節以下では、「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしは、あなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備が出来ている、と言って、マケドニア州の人々に、あなたがたのことを誇りました」と記して、コリントの信徒たちが献金してくれることを前提に、自慢し、褒めそやした、と言っています。コリントの教会の信徒たちは、「何が何でも、献金しなければならない」という状態に追い込まれてしまったも同然です。人には、他人の長所を話して喜ぶ場合と、欠点を話して喜ぶ場合とが考えられますが、パウロは常に、他の教会の良い所を話して、良い影響を与えていた事が分かります。

9:6節では、パウロは、「惜しんで、僅かしか種を蒔かない者は刈り入れも僅かで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」と言う、当時存在していた諺を記しています。パウロが茲で、コリントの信徒達に書き送っているのは、「惜しみなく与える事の、原理」についてです。パウロは、「未だかつて、寛大に与える事によって、損をした人間は、一人もいない」と、主張しています。少ししか蒔かない者は、少ししか収穫は期待できませんが、気前よく蒔く人は、時が来れば、豊かな収穫を刈り入れる事が出来る、と語っています。神の命令を、自分の戒めとして受け入れる人の人生には、何か、新しい、尊い、素晴らしいものが入って来る、ということを忘れてはならないのです。

パウロは、旧約の詩編を、「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは、永遠に続く」と、引用しています。そして、「貧しい人に施した」という言葉の中に、コリントの信徒たちに期待する、エルサレムの、貧しい聖なる者たちへの募金の根拠を見出しているのです。

そして、受け取る者、即ち、エルサレムの信徒達の感謝は、贈り主であるコリントの信徒達への執り成しの祈りとなります。パウロは、最後に、コリントの信徒たちへ、感謝の言葉を送ります。15節です、「言葉では言い尽くせない贈り物について、神に感謝します」と、結んでいます。この、神への感謝は、2つの意味が込められているように思います。ひとつは、文字通り、コリントの人々がエルサレム教会の貧しい人々を思って捧げる献金に対する感謝、そして、もうひとつは、コリントの信徒たちが、あの、異端の教師たちに扇動されて、一時期、パウロを誤解し、拒否しようとしましたが、パウロが書いた、「涙の手紙」と、それを持参して、執り成してくれたテトスの働きによって、コリントの信徒たちが、再び、全幅の信頼と尊敬を、パウロに対して持つようになったことへの、感謝です。

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