すべて主イエスの名の下に
大坪章美
コロサイの信徒への手紙 3 章 12-17 節
パウロは、3年もの間伝道の拠点としていたエフェソを出発して、紀元57年にマケドニアとギリシャを再び訪れ、冬の3か月をコリントで過ごして、58年の春には第三回伝道旅行を終えて、エルサレムへ上りました。その後は、エルサレム神殿に居た時に、ユダヤ人達に暴行を加えられた為にローマの兵卒に捕らえられました。そして2年もの間、ユダヤ総督フェリクスの手によってカイザリアに監禁された後、紀元61年の春頃には、ローマに護送されました。ローマに到着したパウロは、最も緩やかな禁固刑の扱いを受けて、自費で家を借りて、2年もの間、ローマに滞在し、機会があれば、福音伝道に精を出したと言われています。
この緩やかな監禁状態にあったパウロを訪ねて来たのが、エフェソで伝道していた折りに、コロサイやラオデキアに教会を立ち上げた、同労者のエパフラスでした。そして、エパフラスがもたらした報告の中には、“誤った教えが、コロサイの信徒たちの間に広められている”という内容があったらしいのです。このことが、獄中にいるパウロが、このコロサイの信徒への手紙を書き送った動機となりました。この異端思想の中には、道徳を捨て去るような教えがありました。これは、キリスト教徒が、当然持たなければならない純潔と貞操に対する関心を人々から失わせ、肉体的、あるいは身体的な罪を軽く考えさせる傾向がありました。
パウロは、誤った教えである、異端思想から遠ざかるように、コロサイの信徒達へ、警告を発します。3:5節では、「だから、地上的なもの、即ち、みだらな行い、情欲。悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は、偶像礼拝に他ならない」と警告しています。
茲で語られた言葉、「地上的なもの」とは、元の言葉、ギリシャ語では、「地上の体の一部」を意味しています。そして又、「捨て去りなさい」という言葉も、元の言葉では、「殺してしまいなさい」という意味です。パウロは、茲に、人間の五つの悪徳を列挙しています。パウロの言葉を言い換えますと、「みだらな行いや不潔な行い、情欲、悪い欲望及び、貪欲、という地上の体の一部を、殺してしまいなさい」と、言っているのです。わたし達キリスト者の洗礼と同時に行われるキリストの割礼は、「神の御心に背く、全ての考えや行いを、生活の中から切り捨てることによって」行われるのです。
3:12節の冒頭は、口語訳聖書で読みますと、「だから、あなた方は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と記されています。かつて、五つの悪徳が洗礼を授けられる前の、地上の私達の体の一部でありましたように、洗礼を授けられて、復活のキリストと共に、新しい命を生きる私達の今の体は、やはり、五つの徳目から構成されていると言うのです。
このように、五つの徳目の衣を身に着けた上で、パウロは、もうひとつ、これらすべてを括るものを、付け加えています。14節に、「これら、すべてに加えて、愛を身に着けなさい」と記しています。五つの徳目の衣を身に着けた上から、“愛”という帯で、括るのです。
パウロは、“愛”の絆が壊されそうな状態に遭遇した場合、例えば、わたしたちのキリスト教的な愛が、心の中で、キリスト教らしくない苛立ちや、矛盾に陥った場合に、それを、克服する方法を教えてくれています。それが、15節、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と勧めています。キリストの愛の心で実践しようとして、立ち往生した場合、パウロは、心の中で、「キリストの平和」に、照らして見なさい、と勧めているのです。教会の共同体には、キリスト・イエスによってもたらされ、授けられた具体的な平和があります。そして、キリストの平和に照らして見て、わたしたちがキリストの決定、に従うならば、わたしたちは決して間違うことがありません。
そしてパウロは、コロサイの信徒達に、全ての行いを、「主イエスの名の下」と、「神への感謝」に置くように命じます。「全てを、主イエスの名によって」、即ち、洗礼も、祈りも、救いも、計画も、全ての行いに際して呼びかける時に、その名の力が齎されるのです。