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神と和解させて頂く

神と和解させて頂く
大坪章美

コリントの信徒への手紙二 5 章 16-21 節

パウロは、「それゆえに」という言葉で始めています。即ち、「キリスト・イエスがすべての人のために死んでくださったのは、わたしたちがイエス様の復活に与って、“新しい人”として生きるためであり、その新しい生は、自分自身のためではなく、復活されたイエス・キリストのためであるが故に」という意味になります。それ故に、パウロは、「わたしたちは今後、だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。パウロのこのような考え方は、あの、ダマスコへ下る道の途中、「サウロの回心」として有名な出来事を境にして、180度転換したのでした。「肉に従って、人を知る」ということは、“人間の判断”がもともと不十分であるばかりでなく、それは、偏見と片寄りに満ちています。

パウロは、かつて、「肉に従って」考えていたのですが、この衝撃的な回心の体験の後は、「キリストは、自分の罪ために死んで下さった」という深い確信の中で、それ以降は「霊に従って」考えるようになったのです。

パウロは、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」と記しています。然し、「人がキリストと結ばれる」という事は、どういう事なのでしょう。パウロは、「主の為に生きる」事を、「キリストの中にある存在」と名付けています。即ちキリストと共に生きる“新しい人”が創られたのです。この「新しい人」こそが、「キリストに結ばれた人」なのです。

パウロは、18節で、「これらはすべて、神から出ることであって、神はキリストを通して、わたし達をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を、わたし達にお授けになりました」と言っています。すべてのことは、人間からではなく、神から出ているのです。即ち、第一に「キリストの死によって、神と人間とを和解させ」、そして、第二に、「その、和解の務め」を、パウロに与えられたことを言っているのです。

この、神と人間との和解について、パウロは、19節で、「神は、キリストによって、世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委ねられたのです」と、記しています。

神は、“キリストによって”即ち、「キリストの生と、死と、復活によって生じた事を通して」この世と和解させられました。主なる神様は、唯、神と人間との和解を成し遂げて下さっただけでなく、この、「神と人間との和解」を、全世界に伝える為に、人々の間に、「伝道の任務」を定められたのです。神が、使徒達に委ねられた「和解の言葉」とは、“イエス・キリストの福音”の事です。そして、その救いの御業は、神によって、今もなお、進め続けられています。20節で、パウロは、コリントの信徒達に願っています。「キリストに代ってお願いします。“神と、和解させて頂きなさい”」と、命令とも願いとも、思える言葉を記しています。

パウロは、「キリストの死」を、罪の為に神に近づけない人々を、「神と和解させるものである」と考えていました。“罪”は、人を、神から引き離すものである、という考え方を、多くの人が持っています。愛する人が不治の病いに罹ったり、自分の責任でもない事故に遭って、体の自由が利かなくなったりする事によって、神を否定したり、神に反抗したりする人があります。

一方では、イエス様は、不当なことのために、苦しんで下さいましたし、パウロも同じでした。パウロは、信頼した人々から拒絶されましたし、難破船に乗っていて死の危険に遭ったこともあります。・・・しかし、パウロは、罪なくして受けた苦しみによって、神に反抗することはありませんでした。パウロは、すべてのことに於いて、神に支えられていたのです。

21節では、パウロは、神様がなされた、“キリストと人間の交換”について述べています。「イエス様が、わたしたちの罪を身に纏って罰せられ、十字架上で死なれた」ということ。このことによってのみ、「わたしたちは、神の義を得て、新しい人間とされた」ということ。このように、神様は、「イエス様の死」と、「わたしたちの義」とを交換されたのです。そして、その交換は、わたしたちが、神と和解させて頂くことによってのみ、効力が発生するのです。

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