過去の説教

主イエスの贖いの業

主イエスの贖いの業
大坪章美

ローマの信徒への手紙 3 章 19-26 節

パウロは言っています、「すべて、律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています」と記しています。然しまた、これに続くパウロの言葉、「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです」と言っている中の、「すべての人」、或いは、「全世界」という言葉を勘案しますと、“律法の民、ユダヤ人”のみならず、異邦人を含む人類全体に対するものであることが分かります。

そして、その理由を、「律法を実行することによっては、誰一人、神の前で、義とされないからです」と言っています。人間は、もともと不完全な被造物でありますから、律法という、“神の完全性”に到達することは出来ないのです。例えば、交読文34に、十戒が記されています。その第一戒、「汝、わが顔の前に、我のほか、何ものをも神とすべからず」と定められています。しかし、現実に、わたしたちは、いろいろなものを、神より大切にする誘惑にかられて生活しています。権力、地位、財産、お金、常識、科学、自分の腹、ありとあらゆるものを、神より大切にしてしまいます。

このように、人間は、律法の一つだに、守ることはできません。一つの律法さえ守ることが出来ないで、罪を犯すのですから、全ての律法を守る事ができないわたし達人間は、みんな、大罪人となってしまいます。

パウロは、「ところが今や、律法とは関係なく、然も、律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と、述べています。「神の義」が意味するところは、『イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる義しさ』の事です。この神の義は、律法とは関係なく現わされました。それでは、「律法」は、何の役にも立たず、一方的に破棄されたのでしょうか。そうではありません。何と言っても、律法は、「満たされるべき神の律法」であることに変わりはありません。ですから、パウロは、「神の義は、律法と預言者によって立証されて示された」と、言っているのです。つまり、「律法が満たすべきであったが、満たし得なかったものが、神の義に於いて、神の義として満たされた」のです。

パウロは、この、「神の義」は、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる」と言っておりまして、「そこには、何の差別もありません」と言っています。人種、民族など関係なしに、「すべて、信じる人々」になるのです。23節で、「人は皆、罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっています」と言っていますが、人間は、一人の例外も無く、罪を犯したのです。人間の歴史は、罪の歴史であって、人間の社会は罪の社会です。ですから、誰一人として、神の栄光を受ける事ができなくなっていたのです。このような、「罪における人間の平等」が、パウロの言葉、「唯キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです」と言っていますように、「全ての人間に救いの道が開かれた」と告げる、“救いにおける人間の平等”に大転換を果たすのです。

では、「キリスト・イエスの贖いの業」は、どのようにして行われるのでしょうか。パウロは、「神は、このキリストを立て、その血によって、信じる者のために罪を贖う供え物となさいました」と記しています。

旧約の時代、年に一度の贖いの儀式に行われてきたことに対して、ただ一度のキリスト・イエスによる「神の啓示と和解」が行われたのです。旧約の祭儀的な犠牲の観念からしますと、「血を流すこと無くして、赦されることは無い」神の厳しい裁きが、行われたのでした。十字架のキリストは、わたしたちの過越しの羊、「血による犠牲」であって、その血は、「新しい契約の血、多くの人の罪のために」流されたのでした。

キリスト・イエスが、人間の贖罪の為の「宥めの供え物」になって下さったことによって、神は、ユダヤ人にも、異邦人にも、それまでの罪を忍耐をもって見逃して下さったのでした。これによって、神から罪の赦しを受け、罪を贖ってもらうのは誰か、と言いますと、「キリストを信じる者」、即ち、わたし達、キリスト者です。わたし達は、主なる神様から、キリストにあって、義とされている事を、感謝したいと思います。

アーカイブ