過去の説教

神は歴史の主

神は歴史の主
大坪章美

使徒言行録 17 章 1-15 節

テサロニケは、フィリピの町から、120キロ程も西の、エグナチア街道に沿った所にありました。パウロは、茲で3回の安息日に渡って福音を語り、その説教内容は旧約聖書による福音の証明でした。具体的には、旧約聖書の、苦難のメシアの個所、そしてまた、「復活について預言されていること」について語ったのです。旧約聖書の「苦難のメシア」と言いますと、イザヤ書53章を語ったのであろう事は、直ちに想像できますが、「メシアの復活」について旧約聖書から語ったということになれば、一体、どの個所であったのでしょう。

それは、詩編16篇10節以下の約束でした。そこには、「あなたは、私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に、墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます」と、歌われています。詩編作者は、死の想いに直面しながらも、喜びと確信を言い表しているのです。10節の冒頭には、翻訳はされていませんが、「何故なら」という言葉が存在します。それは、9節で歌われた、「私の心は喜び、魂は躍ります。体は、安心して憩います」という言葉を説明するものだからです。詩編作者は、「死」そのものを、心の内で、克服しつつあるのです。神との命の交わりによって、神と共に生きる生が、全身全霊を包み込む時、死の呪縛は、力を失うのです。神より発する、この「命」のうちに、「死を克服する勝利の力」が、潜んでいるのです。

このように、パウロが、「苦難のメシア」と、「メシアは死者の中から復活する」という約束を旧約聖書から解き明かし、「このメシアこそ、キリスト・イエスである」と説明したものですから、神を崇める多くのギリシャ人や、かなりの数の主だった婦人たちが、キリストの福音を信じて、パウロとシラスに従った、と記されています。しかし、このことが、ユダヤ人たちの妬みを買うことになってしまいました。

すんでの所で、ユダヤ人達の追っ手を逃れたパウロとシラスを、テサロニケの兄弟達は、直ちに、夜のうちに、ベレアに送り出しました。パウロとシラスは、茲でも、身を潜めていようとはしませんでした。早速、シナゴーグに入って、テサロニケで行ったと同じように聖書を引用して、「メシアの受難」と、「死者の中からの復活が約束されている事」を解き明かしたのです。

11節には、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人たちよりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」と、記されています。実際、ベレアのユダヤ人達は、心が広く、偏見が無く、パウロが宣べ伝えた御言葉を受け入れて、それが、その通りなのかどうかを、最も信頼すべき基準に照らして真実であるかどうかを、調べたのです。しかも、その結果、全員が、パウロの言葉に従った訳ではありません。「そのうちの多くの人が信じ、ギリシャ人の上流の婦人や、男たちも、少なからず、信仰に入った」と、記されています。

このように、パウロが今、また、ベレアでも、聖書を引用してパウロが語る福音を、多くの人が信じ、信仰に入った、というのは、やはり、父なる神様のご計画に基づくものであったことが分かるのです。

旧約の、イザヤ書44:26節で、預言者イザヤは語っています、「僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる」と、主の言葉を語っています。まさに、神は、ご自身が「歴史の主」であられることを、言葉と行いの一致において、証明されるのです。

ベレアのユダヤ人たちは、パウロが語る御言葉を素直に受け入れて、熱心に、その言葉通りなのかどうか、を毎日、聖書を調べていたのですが、歴史の支配者である主なる神様が預言され、実現されるのですから、いくら調べても、「その、御言葉どおりである」ということが証明されるだけであったことでしょう。こうして、ベレアでも、多くの人々が信仰に入ったのです。

わたしたちキリスト者の地上での歩みは、様々な困難を経験しますが、すべて、「歴史を支配される方」が導いて下さっています。今日何があろうとも、明日、何があろうと、イエス・キリストの救いを仰ぎ見て、喜びに満たされて、歩み続けたいと思います。

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