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愛と憐れみ

愛と憐れみ
大坪章美

マタイによる福音書 25 章 31-46 節

25:31節からは、明らかに、「最後の審判」について述べられている箇所です。「人の子は、栄光に輝いて、天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らを選り分け、羊を右に、山羊を左に置く」と言われました。「羊を右に、山羊を左に置かれた」という言葉も、イエス様の御心を表わしています。右に選り分けられた羊は、後で、「正しい人達」と呼ばれ、左に選り分けられた山羊は、後に、「呪われた者ども」と呼ばれることになります。

しかし、それにしても、最後の審判であるからには、一方は「救いへ」、他方は、「滅びへ」の選別が行われることには、間違いありません。終わりの裁きは、人それぞれの生前の行いに従ってなされるという根本原則は確立しているのです。

24:14節では、「そして、御国のこの福音は、あらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」とイエス様は預言されています。と、言うことは、その御前に集められる「全ての国の民」とは、全世界に及ぶ伝道が行き渡り、全ての人々が、キリスト教の福音の知らせを受け取った後であることが分かるのです。

イエス様は、34節で、「そこで、王は、右側に居る人たちに、言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。天地創造の時からお前たちのために用意されている国を、受け継ぎなさい』」と言われました。そして、王は、この、右側に居る人たち、羊として扱われたひとたちが祝福された理由を、六つの基準で説明されました。「飢えていた時食べさせ、渇いていた時飲ませ、旅をしていた時宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢に居た時、訪ねてくれたから」という、六つの行いについて、彼らを誉め讃えたのです。

ここで注目すべきことは、この正しい人たちが王に尋ねた、「いつ、わたしたちはお助けしたでしょうか」問いかけているところです。この、正しい人たちは、自分たちが、「助けを必要としている、弱い、貧しい人たち」に対して示した、善い業について、全く何も意識していなかったことに注目すべきです。ここに、わたし達は、“信仰義認”の真髄を見る思いがするのです。

この六つの基準が意味するのは、「愛と、憐れみから生まれる行い」です。王なるキリストが、“義”の基準とされるのは、「愛と憐れみから生まれる行い」です。信仰は、「愛と憐れみの行い」となって実を結びます。

一方で、王なるキリストは、左側にいる山羊として選び分かたれた人達にも、言われました。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある、永遠の火に入れ」と、宣告されました。

「お前達は、わたしが飢えている時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢に居た時に訪ねてくれなかったからだ」と非難されました。イエス様は、「キリストであれば危険を犯してでも、払う犠牲や奉仕を、困難な中にあるのが兄弟姉妹であるからといって、出し惜しみをする彼らの態度に、山羊として左側に選り分けられる根拠があるのだ」と、仰るのです。

イザヤ書58:7節には、「神に従う者の道」が記されています。「飢えた人に、あなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」と、記されています。そのような人には、「あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる」と、続いています。そのような人こそ、「神に従う道」を歩いているのです。

そして、そのような人こそ、最後の審判において、王なるキリストから、羊として右に選り分けられる人たちです。まさに、神に従う道こそ、愛と憐れみの道なのです。わたしたちも、いつの日か、王なるキリストによって、羊か山羊に選り分けられる時が来ます。その為には、日々、真の信仰に歩み、イエス様が残された「互いに愛し合いなさい」との掟に忠実であれば、何も恐れることは無いのです。

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