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救われた喜び

救われた喜び
大坪章美

ローマの信徒への手紙 7 章 14 節 8 章 1 節

パウロは、「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人間であり、罪に売り渡されています」と、言っています。つまり、「律法が霊的であるのに対して、人間が霊に属さず、肉の性質を帯びているから、人間は、命を受けることが出来ないのだ」と言っているのです。更に申しますと、「人間が肉の性質を帯びている」ということは、「“肉”と“罪”とは、分かち難く、密接にからみ合うもの」という法則の許にあることになるからです。ですから、「肉に属する人間」は、必然的に罪の力に支配されて、体ごと、“罪”に絡め取られてしまっています。このことを、パウロは、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」と、表現しているのです。

それは、あたかも、一つの体の中に、2人の人が居るようなものでした。意思の主体である“わたし”と、行いの主体である“わたし”とが分裂してせめぎ合うのでした。“意思の主体であるわたし”にとっては、自分自身の行いが、疎ましくてたまりません。自分のしたことに対して、反抗と憎しみを抱いてしまうのです。それは、“意思の主体であるわたし”が律法の側に立っているからです。わたしの心が、「律法を正しい」と考えているからに外なりません。それにも係わらず、“行いの主体であるわたし”が、意思の主体であるわたしにはお構いなく、望ましくないと思っていることを行なってしまうのは、もはや、それは、“わたし”ではなく、わたしの中に住み着いた“罪”の仕業なのです。

このような、“人間の分裂”、即ち、「意思と理性の主体である自分」と、「体と行いの主体である自分」とのせめぎ合い。パウロは、これを、「肉の中に巣食っている罪」の働きによるものであると、言っています。

パウロは、「『内なる人』としては、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体には、もう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります」と、記しています。「内なる人」とは、律法が刻み込まれた、私達の心のことです。心では律法を尊びながらも、パウロは、この掟を実行に移すことが出来ない、と言っています。

このように、律法を尊ぶ心も、罪の力に敗れ、肉の体においても、罪の力のもとに組み敷かれて、身動きが取れなくなった状態の中で、パウロは遂に、絶望の叫びを上げるのです。「わたしはなんと、惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」という、パウロの叫びが、記されています。そして、その“救い”とは、「罪と、律法と、死とからの解放」でなければならないのです。

そして、この、救いを求める「わたし」とは、パウロという個人ではなく、全ての人間なのです。

ここで、唐突に、パウロの絶望の叫びが、救いの感謝の声に、かき消されてしまいます。25節でパウロは、「わたしたちの主、イエス・キリストを通して、神に感謝いたします」と、心の底からの安心感に包まれて、イエス・キリストによって彼を救い出して下さった神に、感謝の声を上げています。

心も体も、罪のとりこになって、絶望の淵にあったパウロが、突如として、救われた感謝の叫びを上げています。そして、絶望の淵から、救われた感謝までの間に、パウロは勿論のこと、人間は、だれ一人、何もしていませんし、また、何もできないのでした。ただ、神おひとりで、全てをなされたのです。

実に、パウロが絶望の叫びを上げたのは、「死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」と、嘆いたのは、イエス・キリストが、人間のすべての罪を背負って、贖いの死を遂げて下さる以前の、人間の実像であったのです。

8:1節には、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって、命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則から、あなたを解放したからです」と、パウロは記しています。私達は、改めて、キリスト・イエスに招かれて、罪と死の体から救い出され、永遠の命を生かされている現在を感謝したいと思うのです。

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