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やがて来られる方

やがて来られる方
大坪章美

ヨハネの黙示録 1 章 1-8 節

ヨハネの黙示録1:7節には、天使から与えられたヨハネの確信が述べられています。ヨハネの黙示録全体の使信とも言うべき箇所です。ヨハネの時代に、キリスト教徒であることは、辛いことでした。ヨハネ自身も、流刑に遭わされ、投獄され、さまざまな迫害に遭い、また、多くの人達が残忍な仕方で、殉教して行きました。このような時に、勇気と希望を固く保ち続ける道は、過去を思い起こす事でした。主なる神様が、今も未来も、変わることなく信頼に足るお方であることを確信する方法は、過去に示された、神の御業を思い起こすことでした。それによって、現在の自分の心の支えとし、また、自分に降りかかる困難に対処しようとしたのす。ヨハネが茲で示す黙示録全体のメッセージとは、「イエス・キリストの再臨」への確信です。

1:7節には、「見よ、その方が、雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは」と記されています。この箇所は、ダニエル書7:13節にあります、ダニエルが見た、夜の幻です。初代教会の人々は、ダニエルが見た幻によって、「人の子が、全ての人に対する裁きと、ご自分を信じる者たちの救いのために、地上に来られる」と期待していました。キリストの再臨は、わたしたちキリスト者にとって、魂を養う約束です。ダニエルが見た幻は、「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」と描かれています。このダニエルが見た幻から、普遍的な要素を取り出すならば、「イエス・キリストが万物を支配される日が必ず来る」という真理が語られている、ということです。この希望の中に、キリスト者は、今日まで、如何なる困難に陥っても、例え、殉教の死を遂げることになろうとも、その困難に勝る力と慰めとを、得て来たのです。

また、ヨハネが引用した、7節の後半には、「ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼の為に嘆き悲しむ」とあります。この個所を、ヨハネは、ゼカリヤ書12:10節から引用しています。そこには、「私はダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」と言う、主の言葉が記されています。茲で、「彼ら、キリスト・イエスを刺し貫いた者」と言われているダビデの家とエルサレムの住民は、具体的には、ユダヤ人とローマ人を指しています。

父なる神様は、その民に、良い羊飼いを与えられましたが、不従順な民は、愚かにも、この良い羊飼いを十字架にかけ、刺し貫いて殺してしまったのでした。ヨハネの黙示録は、キリスト・イエスの再臨の日、彼らは、自分たちが刺し貫いた、良い羊飼いを思って、自分たちがしたことを悔いて、嘆き悲しむであろう、と語っているのです。いつの時代になっても、キリストの敵にとって、キリストの再臨は恐怖です。しかし、それは、実際にイエス様を手にかけて殺したユダヤ人や、ローマ人には限りません。いつの時代でも、イエス・キリストを無視する人は、イエス様を再び十字架に架けることになるのです。イエス・キリストを無視し、敵対する人々は、たとえ、自分では、ことの重大さに気づいていないとしても、その日には、全宇宙の主、全てのものの裁き主に対面させられるのです。

再び来られるキリスト・イエスを、全ての人間が、全ての目が、見上げるのです。イエス様を刺し貫いた者たちも、顔を背け、目を背けるわけにはゆかないのです。全ての国民、全ての民族が裁きの座に着かなければなりません。そして、再臨の主が、裁き主として判決を下されるのです。7節の終わりは、「然り」ギリシャ語で、ナイ「その通り」と言う意味です。そして、「アーメン」ヘブル語で、「そのことが行われますように」と言う意味です。ギリシャ語ヘブル語を並列することによって、その厳正な事実を強調しているのです。このように黙示録で語られている終末の出来事は、イエス・キリストの受難と死と復活から始まり、終わりの日におけるキリストの再臨にまで及んでいるのです。

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