悔い改めを待つ神
大坪章美
ペテロの手紙 3 章 1-13 節
著者は、「愛する人達、私はあなた方に二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によって、あなた方の記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです」と言っています。ペトロの手紙一の著者ペテロは、「旧約の預言者達は、天地創造の前から、ロゴスとして存在されたキリストの霊が、キリストが被ることになる苦難と、その栄光について、前もって証していた」と記していました。著者は、このような旧約の預言と、キリストの使徒達が伝えたイエス様の預言を思い起こす事によって、異端の教師達が主張する、“誤った教え”、即ち、「キリストを否定し、主の再臨を否定する教え」を退けようと考えているのです。
しかし、現実には、この手紙が書かれた、紀元130年頃には、キリスト再臨は、未だ起きてはいませんでした。著者は、この現実の上に立って、「異端の教師達が、われわれキリスト者に、攻撃の矛先を向けて来る」と言って、警告しているのです。異端の教師たちは、「キリストの再臨は、いつまで経っても起きないではないか。天の国は現れないではないか」と言ってかさにかかって、キリスト者を責め立てたのでした。
実は、異端の教師たちの狙いは、ここにあったのです。彼らは、「自分達は、真の知恵、即ち“グノーシス”を持っている者だから、既に罪から解放されている」と、高言して、「自分たちが、欲望の赴くままに歩む」という生き方を、正当化する必要があったのです。そして、そのために、「キリストの再臨の遅れ」を攻撃することによって、“神による最後の審判”の教えを疑わしいものと、主張したのでした。著者は、まず、彼らの、「天地創造の初めから、この世は何も変わっていない」という指摘に反論します。「世界の創造とその維持とは、力ある神の言葉によってのみ可能であり、ノアの洪水は人類の腐敗の故に起こされた。現在の天と地も、神の言葉によって火で焼き尽くされる。それは、最後の審判の時に、神を信じない人々が滅ぼされることと、一致するのである」と、預言しています。
著者は次に、彼らの、二つ目の指摘に、反論を始めます。それは、「主の再臨の約束は、どうなった。未だ、来ていないではないか」という、神の約束の成就に対する疑いでした。著者は、「神は、人間とは異なる時間の尺度を持っている」と言うのです。神の時間の観念から考えると、人間の言う千年は、1日のようなものである。主イエス・キリストが、「わたしは、再び来る」と言われて、数十年が経過したからと言って、神の約束を疑う根拠にはならない、と、反論しているのです。
そして、異端の教師達が非難する、「主の再臨は、未だ起きないではないか」という疑問に対して、根本的な理由を挙げます。それは、「神の、“人間に対する愛”故の結果である」と言うのです。キリストの再臨が未だ起きないのは、「神は、人間の一人でも多くの者が救われるようにと、“人間の悔い改めの時”を延ばしておられるから」であると言っています。このように、神様は、人間の悔い改め、神への立ち帰りを忍耐して待っておられますが、いずれ約束の成就の日はやって来ます。主の再臨の日が来ることは避けられないのです。
ペトロの手紙二の3:10節に戻ります。「主の日は、盗人のようにやって来ます」と、記しています。キリスト・イエスは、それ程、突然に私達人間の不意をついて現れ、全世界にそのお姿を現わされるのです。その時、わたしたち、キリスト・イエスを信じる者には救いとなり、信じない者達には滅びの時となるのです。
著者は、この後、歴史を締め括る、最後の、世界の破局の描写を綴っています。この、世界の破局は、キリストの再臨をもって始まりますが、これにより、全宇宙の、新しい形成に至るのです。
古い世界が破壊されるのは、キリスト者にとっては、恐ろしいことではありません。それは、ただ、新しい世界を創造するための、ステップに過ぎないからです。そして、新しい天と地とは、主なる神様の最後の創造物であって、これはもはや、滅びることはなく、永遠に残るのです。その世界は、その中に、神の義が支配するところ、常に、神の御心が成るところです。