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輝き出る光

輝き出る光
大坪章美

マタイによる福音書 5 章 11-16 節

5章1節からは、「山上の説教」として世に名高い箇所です。山上の説教の初めには、九つの“幸い”が語られています。「心の貧しい人々」に始まって、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」は、幸いである、と言われています。ここ迄で、八つの幸いが語られました。

そして、九つめの“幸い”は、「わたしの為に罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は、幸いである」と仰いました。

まさに、この11節は、10節の、「義のために迫害される人々」の説明になっています。今、イエス様は、目の前に広がって腰を下ろしている弟子たちと群集の目を見て、「あなた方は、幸いである」と仰ったのです。「義のために迫害される人々」とは、不特定の人々ではありません。「あなたがた」に絞られているのです。

具体的に仰ったのは、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」というお言葉です。 “中傷”いわゆる、「身に覚えのないことで傷つけられる」という事は、ユダヤ人にとっては、非常に大きな打撃となりました。それによって、当時の状況では、ほとんど、生存の可能性も、失うことにもなったのでした。

しかし、イエス様は、このような事態に陥った時、「あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と仰いました。このような、絶対絶命の危機の中で、彼らの生存を支えた力は、10節後半にあります通り、「天に国籍を与えられている」ということでした。イエス様は、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と仰います。然し、何故、それ程迄に、“喜ばしいか”、と申しますと、「イエス様の為に迫害を受ける者は、その人の生き方が、イエス様の言葉によって、父なる神の将来に向けてその照準が合わせられる」という状態になっているからなのです。

イエス様は、13節で、「あなた方は、地の塩である。だが、塩に塩気が無くなれば、その塩は、何によって塩味が付けられよう」と仰いました。イエス様の弟子たる者は、それ程、“地の塩”であるべき重い使命を託されているのだと、言われています。次に、イエス様は、ご自分の弟子達に、「あなた方は、世の光である。山の上にある町は、隠れる事ができない」と、言われています。まず、イエス様ご自身が、“世の光”であって、その光が弟子達にも点じられて、その結果、弟子達も、「世の光」と、呼ばれるのです。「世の闇を照らす光」である弟子達は、山の上にある町と同じで、人の目から隠れる事は出来ないのです。「また、ともし火を灯して、升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの、全てを照らすのである」と言われました。この“ともし火”は、
弟子達の内に宿された、“イエス様のともし火”のことです。

ですから、「人々の前に、輝かしなさい」と命令されても、弟子たちの、自発的な力で、輝かせることは出来ません。ましてや、自ら善行に励んで、世の人々の賞賛を浴びなさい、などと理解したら、それこそ、御心に反することになります。弟子たちの心の中にある“イエス様の光”は、自ら輝くのです。ですから、「あなたがたの光を、人々の前に、輝かしなさい」というイエス様のご命令は、むしろ、「あなたがたの光を、人々の前に、覆い隠すな」と翻訳した方が、真実に近いと思われます。それでは、弟子たちが、特段の努力をしなくても、意識的に覆い隠すことをさえ、しなければ、弟子たちの内に、イエス様の光が輝き出るのは、如何なる根拠に基づくのでしょうか。

これを解く鍵は、イエス様の山上の説教で語られている、九つ目に記された“幸い”を、思い起こすことにあります。5:11節に始まる、「わたしのために罵られ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられるあなたがたは、幸いである。喜びなさい。躍り上がって喜びなさい」と、勧められたお言葉です。この、「天の御国の民」とされる、という“歓喜”、“喜び”の力が、自ずから外に溢れて、弟子たちに、“善き業”を生み出さざるを得なくさせるのです。 

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