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神の証し

神の証し
大坪章美

ヨハネの信徒一 5 章 1-12 節

著者ヨハネは、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」と記しています。この事は、地上の日常の生活の中でも、見られる事です。即ち、「生まれた子どもは、自分を産んでくれた親と、この親から同じように生まれた兄弟姉妹を愛する」という、普遍的な関係です。

この、人間世界での原則を、霊の世界に応用すれば、「神に対する愛が先行して、それによって兄弟姉妹への愛が生まれてくる」という関係が分かります。言い換えますと、「“兄弟姉妹を愛さない者”は、神に対する愛が無い」ということになります。この事によって、ここでは、ヨハネの、異端の教師たち、グノーシス主義者に対する痛烈な批判が展開されていることが読み取れます。これは、異端の教師たちが常々「自分達はグノーシスつまり、“知恵”を持っているから、既に、罪を超越している」と主張して、「神の戒めを守る義務は無い」と豪語していた事を物語っています。「神の戒めを守らない」と言っているのですから、当然、「兄弟姉妹を愛する」という戒めも、眼中に無かった訳です。

ヨハネは、このようなグノーシス主義者の考えに、真っ向から対決して戦いを挑んでいます。「神を愛していると言い乍ら兄弟を憎む者は、偽り者である。何故ならば、憎しみは、神に反抗する、この世に根差しているから」と主張するのです。そして、「主なる神を愛する」という事の本質を、更に深く言い表しています。

「神に対する愛」を持つとき、わたし達は敬虔な思いが心を支配します。そしてその時、自分の心の中に、喜びが湧いてきます。その、「自分の心に湧いてくる喜び」が、“神の御心を満たそう”として、行動を起こそうとするところに、「神に対する、真の愛」が現れます。

そして、ヨハネは、3節で、「“神を愛する”とは、神の掟を守ることです。神の掟を守ることは、難しいことではありません」と言っています。そして、その理由を、4節で述べています。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」と言っています。「世に勝つ」という言葉は、4節の後半、「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」という中で用いられています。ここで語られている、「世に打ち勝つ」と訳された言葉は、過去形で表現されています。すなわち、「世に打ち勝った勝利、それは、わたしたちの信仰です」と翻訳されても良いところです。「世に打ち勝った勝利」つまり、“勝利”は、既に達成されているのです。

ヨハネは、更に、「世に打ち勝った勝利」に与る為の、“信仰の内容”について解明します。どんな信仰でも良いという訳ではありません。「神の子であるキリスト・イエスを信じる信仰」に限られます。ここでも、ヨハネは、グノーシス主義者に対する戦いを挑みます。

ヨハネは「神から遣わされた人、キリスト・イエスは、肉の体を持った歴史上の人であった」という事を、新しい形で証言するのです。「この方は、水と血を通って来られた方イエス・キリストです」と言っています。

ヨハネは、イエス様の死が、神の子の死であることを、それ故に、十字架の上に流された血は、罪の赦しの働きを持っている、ということを、声の限りに主張しているのです。ヨハネは、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、“神の証し”は、更にまさっています」と言っています。“神の証し”とは、「神が、御子についてなさった証し」のことです。

そして、11節で、ヨハネは初めて、「神の証し」を定義しています。そこには、「その証しとは、“神が永遠の命をわたし達に与えられた事”、そして、この命が、御子の内にある、ということです」と記されています。

このことから導き出される結論は、「人は、神の子を持つ時にのみ、永遠の命を持つことが出来る」ということです。わたしたちが、これを確信するのは、3:14節のヨハネの言葉です、「わたしたちは、自分が、死から命へと移ったことを知っています。兄弟姉妹を愛しているからです」と言っています。私達は、永遠の命を頂いて、生きています。ただ、その確信を持てるのは、「兄弟姉妹が愛し合っているから」なのです。

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