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神の国と神の義を求めよ

神の国と神の義を求めよ
大坪章美

マタイによる福音書 6 章 25-34 節

イエス様は仰っています、「だから言っておく。自分の命の事で、何を食べようか、何を飲もうかと、又、自分の体の事で、何を着ようかと、思い悩むな」と教えられました。私達人間を、“命と体”として創造された神様が、自らが創られた“命と体”を維持する為に働かれない筈はない、という強い信仰があるからです。

そして、私達がここで注意しなければならないのは、イエス様が、「命の事で、何を食べようか、何を飲もうか、と思い悩むな」と語られている事によって、「汗水流して労働する事を、軽く見てしまう、ひどい場合は、働かなくても神様は衣食を備えて下さる」と言うような、誤解を生じないようにしなければならない事です。

イエス様が一貫して教えておられるのは、「思い悩むな」ということだけなのです。そして、「思い煩い」が意味の無いことを、27節で、「あなたがたのうち、だれが、思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と教えられました。「思い計ること」つまり、計画を立てることであれば、プラスになります。汗水流して労働する事は、価値があることです。しかし、「思い煩う」ことは、意味がありません。

イエス様は、このように、「命の事で何を食べようか、何を飲もうかと思い煩い、体の事で何を着ようかと思い煩う」人間の弱さを嘆かれ、「神に委ねる」事を忘れて、思い煩う事の無意味さを指摘しておられるのです。

「思い悩み」は、何故起きるのでしょうか。「思い悩む」心の奥底には、「自らへの過信」があります。自分の生活、衣食住くらい、自分の努力と才覚によって確保できる筈だ、という過信があります。このような思いは、決して、間違っている訳ではありませんが、時として、その思いが、行き過ぎる事があるのです。その、「行き過ぎ」とは、「謙虚さを失うこと」です。誰でも、既に「命と体」を与えられています。その「命と体を与えられている事」に感謝する事こそ、先ず第一に考えなければならないところを、肝心要の「感謝」を抜きにして、「食べ物だ」「着るものだ」・・と言って、日々、身を削り、「思い悩んで」過ごしているのです。

ですから、わたしたちは、わたしたちに「命と体」を与えて下さった父なる神様に、まず、“感謝を捧げる”ことが、最も大切なことであると教えられたのです。そうすれば、食べる物や、着る物などは、命と体に加えて、与えられるものなのです。

そうしますと、「真の神、天の父なる神様に、感謝を捧げる」とは、一体、具体的に、どのように行動すれば良いのか、が問題になります。33節で、イエス様は、仰っています、「何よりもまず、神の国と、神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えて与えられる」と、言われました。私達に、「“命と体”を与えて下さった神に、感謝する」という事は、具体的には、「まず、“神の国と神の義を求める事”」であると言われるのです。何を食べようか、何を着ようかと、思い煩う時に、足りないものは、“信仰”なのです。「“信仰”によって、父なる神様に祈る」のは、「神様が、私達に必要なものを、すべて、ご存じだから」、なのです。

“神の国”とは、「神様のご支配があまねく行き渡る所」ですから、確かに、将来的な存在です。然し、私達が、今、“神の国”を求めるならば、私達それぞれの生き方は、神の将来に向けて、整えられることになります。

もう一つの、「神の義」とは、文字通り、「神様が認められる正しさ」の事ですが、具体的には、「キリスト・イエスの救いの御業」を意味します。私達が神様に、「正しい者」と認めて頂く為に為すべきことは、善い行いをしたり、寄付をしたり、断食をしたりする事ではありません。神様が正しいと言われること、つまり、「イエス様の救いの御業を信じる事」に尽きるのです。

このように、たった二つの事、「神の国の到来を待ち望み」、「信仰によって義とされる」だけで、私達には、思い煩いの必要性は全く無くなる、と言うのです。

わたしたちも、今、現在、思い煩いは、心の中に幾つもありますが、先ず、「神の国と神の義」を求めましょう。そして思い煩いから解放される喜びを味わいましょう。

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