過去の説教

信仰によって生きる

信仰によって生きる
大坪章美

ローマの信徒への手紙 12 章 1-8 節

これまでの、長い前置きの結果、パウロは12:1節の、「こう言う訳で兄弟たち、神の憐れみよって、あなたがたに勧めます」と、話し始めています。「こういう訳で」と申しますのは、これからローマの信徒たちへ述べることは、今迄に述べてきた、「信仰によって実現される神の義」に従って、「神の憐れみ」即ち、「アブラハム、ヤコブ、イサクの血統でもない、異邦人であるあなた達が、イスラエルの民に先んじて、救いに入れられる」という“神の憐れみ”によって、あなた方に勧めると言っているのです。そしてそれは、“感謝の思い”を、“行為”という形に表す他にはありません。それは、「感謝の供え物」という形をとります。パウロが勧めているのは具体的です、「自分の体を、神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなた方の為すべき礼拝です」と言っています。

その、捧げられる供え物は、異教の神殿やユダヤ教に見る祭儀のように、自分の所有物の一部を捧げるようなことではなく、「自分自身を捧げる事」、いけにえの動物を屠る事ではなく、「生きたままの自分自身を、神の御前に捧げて従う」という事が、新しい形となったのです。その聖なる供え物は、「生まれながらの罪の体ではなく、キリストと共に死んで、キリストと共に甦って、新しく生きている体」、そして「全てのものから聖められた、神の聖なる宮である体」、そして、三つめに、「神に喜ばれる体」でなければならないのです。既に聖霊を与えられた、生ける人間の、“自己奉献のいけにえ”こそ、霊的な神にふさわしい、“供え物”です。

パウロは続けて語ります。「あなた方は、この世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして、自分を変えて戴き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また、完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と、言っています。わたし達は、この世に生まれ、この世に生き、又、もともと、全く、この世のものでありました。この世のものであった時は、自己追求と、虚栄と、高ぶりの中にあって、自分の腹を神とするような、偶像礼拝に生きていました。

然し、わたし達はキリストを主と信じて告白し、父と子と聖霊の名によるバプテスマを受けました。それは、この世の者であった人間が、古い自分としてキリストと共に死に、新しい自分がキリストと共に生かされ、やがてイエス・キリストの再臨の時に、神の国に属する者とされることが約束されたことを意味します。

パウロは、「この世に倣うな」と言っています。元の言葉で言いますと、「この世のスキーム、即ち、枠組みどおりになってはならない」という意味になります。
具体的には、「洗礼を通して賜った聖霊の力によって、心を強められて生きる」ことを意味します。新しいスキームによって生きる者は、律法などは無くても、その時々の神の御心が何であるかを弁え知ることが出来ます。言い換えますと、どのような状況にあっても、「何が善であり、神に喜ばれ、全き生き方であるか」の認識を誤ることは無いのです。

パウロは3節で、「わたしに与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」と述べています。「わたしに与えられた恵み」とは、イエス様が十字架の上で死なれ、そして、復活された時から3年後、パウロがダマスコへ下る途中、天からイエス様の声を聞き、使徒に任じられた出来事を指しています。使徒に任じられたパウロが与える忠告なのです。それは、「自分を過大に評価してはならない」という事です。“勇気”が思い上がりに、又、“積極性”が猪突猛進に陥ってはならない、という忠告です。そして、それが適正に保たれるのは、「“神から与えられた信仰”に基づいて考える事」によります。パウロは教会の集会を手足を持った体に譬えます。体は多くの部分から成っています。そしてその多くの部分が互いに機能して、別々の働きをしながら一つの体を形成しています。奉仕の賜物も、教えの賜物も、それぞれの職分に邁進するのが良いのです。このような日常の働きによって“信仰による義”が実現され、神の御前に“義なる者”と認められるようになるのです。

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