命にもまさる恵み
大坪章美
ローマの信徒への手紙 8 章 31-39 節
パウロは、31節で、「これらのことについて、何と言ったらよいのだろうか」と自問していますが、「これらのこと」とは、28節以降で語られた、「私達、召された者への、神の救いの約束」を指しています。その“救いの約束の恵みの大きさ”を目の前にして、パウロは、表現する言葉も無く、思わず、「何と言ったら、よいのだろうか」と、自分自身に問いかけているのです。そして、結局、一つの命題に行き着くのです。それは、「神が私達に味方して下さる」ということでした。
父なる神様、天地万物を創造され、今も働いておられる神様が、私達を守り、庇って下さる、というのです。神様に守られた生涯であれば、勝利に終わることが保証されています。それは、もはや、災いや、障害や、死の恐怖が、私達の行く手から消え去るということではありません。パウロの時代の人々も、現代に生きるわたしたちにも、それらのことは十分、経験されていますし、これからの人生にも、必ずやって来るものです。私達に逆らい、敵対する者、即ち、神と私達の間に入り込み、神の愛と、私達の信仰を引き離し、奪い取ろうとする闇の存在が、日々、私達に攻撃を仕掛けて来ます。「しかし、それが一体、どうしたと言うのですか」と、パウロは問いかけます。その、闇の勢力の攻撃の矛先を受け止めて下さるのは、全能の父なる神なのです。この世の誰が、全能の神様を敵に回して、勝利できますか、とパウロは言っているのです。
パウロは、36節で、突然、詩編44篇23節の言葉を引用します。「『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです」と言っています。真に、凄まじい迫害と苦難の中にあった、キリスト者の経験が歌われているのです。神の子とされたキリスト者たちの上に、この世で待ち構えている迫害を、パウロは隠すことなく、欺くことなく、記しています。このような苦難が、わたし達に襲いかかって来るとしても、動かし得ないひとつの真実があると言うのです。それが、わたし達に対するキリストの愛であって、動くことも無く、変わることも無い、と確信しているのです。
パウロは、「あなたがたの経験し得る、考え得る、想像し得る、或いはそれ以外の如何なることがらも、キリストにある神の愛から、あなたがたを引き離すことは出来ない。イエス・キリストは、あらゆるものの主である」と、言っているのです。
詩編67篇は、表題に、「ダビデの詩、ダビデがユダの荒れ野に居た時」と記されています。ダビデがその手勢およそ六百人と共に、サウルの追っ手を逃れて、ユダの荒れ野を彷徨っていた時に歌った詩です。2節で、「わたしはあなたを探し求め、わたしの魂は、あなたを渇き求めます」と、神に祈っています。ダビデが潜んでいる所は、水の乏しい、砂漠のような場所です。すべてのものが乾き切っており、渇きを満たそうとする切なる願いは、わたしたちの想像を絶するものです。
3節で、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄光を見ています」と、歌っています。「この荒れ野の中でも、かつての日、聖所におけると同じように、祈ることを止めませんでした」と祈っています。ダビデは、霊によって神を瞑想して、喜ぶことを決してやめないのです。そして4節、「あなたの慈しみは、命にもまさる恵み。わたしの唇は、あなたを誉め讃えます」と祈るのです。「神の恵みは、命にもまさる」と、言っています。“恵み”は、命と別個に考えられ、恵みそれ自体として求められています。“恵み”は、「命のような肉体的なものの過ぎ行く性質の彼方にある現実」として、“霊的なもの”として、見ています。
この、ダビデが祈った、「あなたの慈しみは、命にもまさる恵み」との祈りが、ローマの信徒への手紙の8:39節でパウロが語った、「私達の主、キリスト・イエスによって示された、神の愛」として、実現していることに気付くのです。このように、主、キリスト・イエスにある神の愛に捉えられたわたしたちにとって、本気で恐ろしい、と思う様な如何なる勢力も、事件も、如何なる変化も境遇も、実に何一つ存在しないのです。