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永遠のロゴス

永遠のロゴス
大坪章美

ヨハネによる福音書 12 章 37-50 節

ヨハネ福音書の12:36節には、「イエスはこれらのことを語ってから、立ち去って彼らから身を隠された」とあります。イエス様は、最後の最後、伝道の言葉を、「光のあるうちに、光を信じなさい」と言うお言葉で締め括られました。そして「イエス様が、『彼らから、身を隠された』」と記されているのは、イエス様がご自分の意志によって「隠れた」のではなく、「神様のご意志」によって、「隠れさせられた」事を、示しています。

何故、このように人間は、神の真理から見捨てられなければならなかったのでしょうか。今日お読み頂いたヨハネの言葉は、その理由を次のように述べています、「このように多くの徴を、彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と記しています。

確かにこれだけ多くの奇跡を見せられてなお、「イエス様が神から遣わされた者」即ちメシアであると信じなかった、という事は、むしろ不自然であるとさえ思われます。ユダヤの群集の不信仰には、人間の目では分からない、何らかの理由があるのに違いありません。
ヨハネは、その、「ユダヤの人々の不信仰」の理由を、偶然のことではなく、「神のご意思によるもの」と、主張しています。38節で、「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」と記しているとおりです。

それは、ユダヤの人々の思いを越えて、彼らが信じようと思おうが、思うまいが、主なる神様は、「彼らユダヤ人が信じることを不可能にさせる、超越的な神の力を働かせるよう」イザヤに命令されたのでした。イザヤ書6:9節以下です、「主は言われた、『行け、この民に言うがよい。良く聞け、然し理解するな。良く見よ、しかし、悟るな、と。』」と命じられたのでした。

預言者の使命は厳しいものです。人々の所へ行って、神の言葉を告げるのですが、その言葉の大方は、人々の行いを非難する叱責の言葉であり、又、それを民が聞き入れない場合は、恐ろしい裁きが下される、という威嚇の言葉でありました。このような言葉をイスラエルの人々が快く聞く筈は無いのです。然し預言者は、人々におもねる者であってはなりません。どんなに苦しくても、神から託された言葉を、はっきりと伝える必要がありました。然し、どんなに懸命に語っても、人々は、イザヤの言葉に聞き従う事はなかったのです。

その結果イザヤの必死の説教にも係わらず、人々が神を信じないのも、神のご計画の内にあると考えざるを得ません。言い換えますと「神様は、人々の不信仰さえもご計画の為に用いられる」という事になります。
ヨハネは、イエス様の“しるし”がユダヤの人々に受け入れられなかったのは、神様が、「ユダヤの人々の心を頑なにされた結果である」と、言っておりますが、更にヨハネは、イザヤの預言は、イザヤが天地創造の前からロゴスとして存在されたキリストのご栄光を見ていたので、与えられた預言であったと言っています。

12:41節で語られています。そこには、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と記されています。イザヤが、「行け、この民に言うがよい。良く聞け、然し理解するな。良く見よ、然し悟るな」という神の命令を聞いた時、同時にイザヤは、天上のロゴスを見ており、そのロゴス・キリストが、来るべき地上での働きの時に、「ユダヤの人々を見えない者にし、頑なな者にする」と語るのを聞いたのだ、とヨハネは言っています。

イエス様は、48節で、「わたしを拒み、わたしを受け入れない者に対しては、裁く者がある。わたしの語った言葉が、終りの日に、その者を裁く」と言われました。これは、人生のひとつの偉大な真理です。

イエス様は、愛の内に到来されるのですが、イエス様の到来が裁きになるのです。そして、裁かれるのは、イエス様を拒み、反抗し、受け入れることの無い人なのです。イエス様は47節で言われました。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」というお言葉です。確かにイエス様は裁かれません。しかし、不信仰な者は自ら自分に裁きを招くのです。なぜなら、イエス様が語られた言葉が、終りの日に、その人を裁くからです。

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