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神に至る門

神に至る門
大坪章美

ヨハネによる福音書 10 章 1-10 節

イエス様は、10:1節で言われました、「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である。門から入る者が羊飼いである」と仰いました。この譬えは、「羊飼いが、朝、正しい入り口である門を通って、羊の囲いに入って、羊を牧場に連れて行く」のに対して、「盗人や強盗は、夜、柵を越えて入って来て、羊を奪い、そして殺す」と、教えておられるのです。

羊と、羊飼いの関係は、パレステイナでは特別な関係がありました。例えば、イギリスでは、羊は大部分が食肉用に飼育されました。然し、パレステイナでは、大部分が、羊毛を取る目的で飼育されたのです。ですから、羊と羊飼いが、何年もの間、一緒に暮らす、ということも、パレステイナでは珍しいことではありませんでした。羊飼いは、自分の羊の名を呼んで、全てを連れ出しますと、自分が先頭に立って、羊たちは、それに従いました。羊飼いは、先に進んで、道の安全を確かめて、危険が無いかどうかを、調べたのです。

羊飼いであるイエス様は、羊であるユダヤ人達が一人も欠けることがないように、青草に導き、泉の畔に伴い、傷ついた羊が居れば、ご自分の両肩に担いで、歩かれるのです。そして、羊達は、羊飼いの声を知っていますので、羊飼いの呼び声に、忠実に従うのです。

然し、他の者には決してついて行かず、逃げ回ります。他の人の声を知らないからです。ここで言う羊飼いは、イエス様、羊は弟子達、門を乗り越えて侵入する盗人や強盗は、ファリサイ派のユダヤ人達の事です。

6節には、「イエスは、この譬えをファリサイ派の人々に話されたが、彼らは、その話が何のことか分からなかった」と記されています。9章で、イエス様は、生れつき目の見えない人を見かけられ、「この人の目が見えないのは、神の業がこの人に現れるためである」と仰って、この人の目を、見えるように癒して下さいました。イエス様は、この人に、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は、見えないようになる」と仰いました。これを聞いたファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」と言いましたが、イエス様は、彼らに、「見えなかった、と言うのであれば罪は無かったのに、今、『見える』と言っている。だから、あなたたちの罪は、残る」と仰って、ファリサイ派の人々を“罪人”と非難されたのでした。

ファリサイ派の人々は、ユダヤ教の指導者たちと自他ともに認めている人々ですから、「自分たちこそ、神の救いが見えている」と信じていました。律法を守ることによって、神様から“義しい者”とされることを信じて、人々にも、律法を守るように指導していました。彼らは、「自分たちこそ、ユダヤ教徒を導く、羊飼いである」と信じて、律法を守ることが出来ないユダヤ人を裁くのに、熱心でした。このような、思い上がった心が邪魔をして、イエス様がだれであるか、が見えていないのです。「自分たちは、見えている」と主張するファリサイ派の人々には、イエス様のお言葉を聞いても、何のことか、分からなかったのでした。

そこで、イエス様はご自分の事を明確に話されました。「わたしは、羊の門である」と仰いました。イエス様ご自身が、羊の門であると言われるのです。人間は、イエス様によってのみ、神に近づく道を見出す事が出来ます。イエス様は、私達人間が、自分では見つける事が出来なかった、“神へ至る道”を与えて下さったのです。イエス様は、御自身が門であって、それによってのみ、人間は神に向かって進むことが出来るのです。

イエス様は仰いました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、然も、豊かに受けるためである」と言われました。イエス様は、人々に命を得させ、さらに豊かに得させるために来られました。イエス様に従うことは、あり余る命を持つことなのです。わたしたちが、キリスト・イエスと共に歩む時、わたしたちの心にイエス様を意識する時、わたしたちの生き様に、有り余る命が沸き起こるのです。今週もイエス様にお従いして、有り余る命に満たされましょう。

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