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異邦人への福音

異邦人への福音
大坪章美

使徒言行録 10 章 34-43 節

ペトロはその時、パレスティナの地中海沿岸の港町、カイサリアに居ました。昨日までは50キロも南にあるヤッファの町に滞在していたのですが、昨日、シモンの家に居た時、天から、四隅で吊るされた大きな布のようなものが下りて来るのを見ました。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていたのです。そして、「ペトロよ、立って、それらを屠って食べなさい」という、天からの声が聞こえたのでした。

ペトロは、“食物規定”に従って食べる事を拒否しました。すると、再び天からの声が聞こえてきて、「神が清めたものを、清くないなどとあなたは言ってはならない」と言って、中味と一緒にまた天に引き上げられ、幻は消えた、というのです。丁度その時、3人の人が革なめし職人シモンの家を探し当てて、「主人コルネリウスが『あなたを家に招いて、お話を伺うように』とのお告げを、聖なるみ使いから受けましたのでお迎えに参りました」と告げたのです。そして翌日、ペトロは、コルネリウスの使いの者3人と、カイサリアへ向けて出発して、翌日の午後3時頃、到着したのでした。

百人隊長コルネリウスは、親類や親しい友人達を呼び集めて待っていました。ペトロは一昨日、自分がシモンの家の屋上で見た幻の意味を、コルネリウスとその親類、友人達に語ったのです。ペトロは話を続けました。「神は人を分け隔てなさらない事が良く分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しい事を行う人は、神に受け入れられるのです」と宣言したのです。

神の御前には、民族も、性別も、素性も問題では無く、その人の社会的地位も、宗教的な前歴も問題では無く、ただ、“信仰と正義”だけが必要とされるのです。

ペトロは、イエス・キリストの福音を語りました。イエス様が、およそ30才を過ぎた頃から3年半程の間、ガリラヤに始まってユダヤ全土でいろいろな業を成し遂げられた事です。「神は聖霊と力によって、この方を油注がれた者となさいました」と話しました。そして「ところが、このイエス・キリストをユダヤ人達は木に架けて殺してしまった」とペトロは語りました。

然し、主なる神様は、人間がキリスト・イエスを扱った仕方とは、全く逆の仕方で、イエス様を扱われました。40節に記されています、「神は、人々が殺したこのイエスを、三日目に復活させ、人々の前に現わして下さいました」と、ペトロは語りました。もともと、イエス様は、善い業を為して生涯を送られた方ですから、イエス様ご自身には、死に値する罪もなければ、神から呪われる理由も無く、神から祝福されるべきお方でした。イエス様が十字架に着かれた罪は、御自身の罪の為ではなく、他人の罪であり、他人に対する神の呪いを身代わりに受けて、死刑に処せられたのです。

そして、他の罪深い人々というのが、その時、イエス様を十字架に着けたユダヤ人たち、ローマの兵士や役人、罪深い全ての人間、そして、その中には、その後生まれてきたすべての人間、私たちもふくまれます。もっとはっきり言いますと、人間は、自分の罪を、イエス様に肩代わりして頂いた、考えられないほど、大きな恵みを頂いた者たちなのです。

しかし、ペトロは、「神は、このイエスを三日目に復活させ、人々の前に現わして下さいました」と語りました。人間の考えでは、及びもつかないことが、起こりました。死んでいた者が生き返ったのです。イエス様が復活されたことは、身代わりの贖いが成功し、それによって、私たち人間が、罪のために神に呪われることは無くなった、という確実な証拠なのです。

イエス様の復活によって、人間には、死後の命があることが立証されました。また、イエス様の復活によって、私たち人間の罪の贖いが神に認められ、神の赦しを得ることができました。イエス様が、身代わりの罪を御自分で担われたのは、全ての人々の為でありましたが、この罪の贖いの恵みを受けることができるのは、全ての人ではありません。イエス様の罪の贖いによる赦しを受けて救われるのは、「イエスをキリストと信じる人」に限られます。つまり、「信仰」だけが、人々が“救いの恵み”を受けるために必要なことなのです。

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