過去の説教

忍耐と慰めと希望の源

忍耐と慰めと希望の源
大坪章美

ローマの信徒への手紙 15 章 1-6 節

パウロは、紀元57年から58年にかけての冬の3ヶ月間、コリントに滞在していました。そして、ここで未だ見ぬローマの教会の信徒たちに宛てて、手紙を書き送りました。それが、ローマの信徒への手紙です。

パウロが伝道していた頃、ユダヤ人は、律法の規定によって、豚肉や、血抜きしない肉、あるいは、異教の神殿に捧げられたいけにえの動物の肉は、汚れたものとして、食べることを禁じられていました。一方、異邦人キリスト者たちは、多数派を占め、ギリシャ、ローマの異教の流れを汲む、自由主義者でした。異邦人キリスト者たちは、肉を食べようとしない、禁欲的な人々を、「信仰の弱い者」として、軽蔑したのです。

15:1は、パウロが異邦人キリスト者達、つまり、信仰の強い者達に向かって言っている言葉です。「私達強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と言っています。

強い者たちは、自分に与えられた強さを、人の弱さを担うために、働かせるべきである、と言うのです。そのためには、「自分の満足を、求めるべきではありません」と、続けています。弱い者の弱さを担うことを拒んで、「自分を喜ばせる」、つまり、「ひとりよがりの生き方をする」ということは、「元の、古い人間に帰ること」、言い換えれば、「信仰による人間からの脱落」になってしまう、と、警告しているのです。

このように、「自分を喜ばせるのではなく、隣り人を喜ばせなさい」という勧めの根拠として、パウロは、ここでは、イエス様のお言葉ではなくて、「イエス様ご自身を見てみなさい」と言っています。パウロが言いたいのは、「イエス様でさえ、御自分を喜ばせる生き方」をされなかったのだから、・・と言っているのです。

これは、もはやローマの教会における、「強い者」と「弱い者」との交わりの問題に留まらず、全ての人間生活の中心であり、“信仰による新しい人間存在”の在り方を示しています。パウロは、キリスト・イエスの生き方について、詩編69篇10節の言葉を引用して、歴史上のイエス様のお姿を、正しく描いて見せます。

「あなたを嘲る者の嘲りが、私の上に降りかかっています」というのは、「イエス様の、エルサレム神殿を清める程の熱意が、自らの利益を求めず、弱い者の負った、人間には償い様も無い深い罪を御自分に負わせ、十字架に架かられた」という事実を指しています。

もし、イエス様が、自らを喜ばせようと願われたら、そして、自らを愛されたならば、どうして、御自ら、十字架にかかられたでしょうか。然し現実は、イエス様は、ご自分よりも、私達人間を愛されたのでした。私達人間の為に、ご自分を憎み、捨てられたのです。

ですから、隣り人が、わたしたちに気遣いするように行動するのではなく、わたしたちの方から、隣り人を受け入れるように行動するのが、“愛”なのです。

パウロは、4節の終わりで、「私達は、聖書から、忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができる」と記しましたが、ここでは、「わたしたち」が主語になっています。しかし、究極的なところでは、「わたしたち」は、主語ではありません。「わたしたち」は、目的語、即ち、「神が愛してくださる対象」なのです。本当のところ、「忍耐と慰めの直接の源であり給う神様ご自身が、聖書を通して、わたしたちに働きかけて下さる」と言うべきなのです。パウロは、5節で、この世における、いろいろな重圧や困難の中にあるキリスト者を、聖書を通して力づけ、励まし「忍耐と慰め」とを与えて下さる神に呼びかけ、神に祈りを捧げています。

パウロは、この、主なる神ヤハウェを、「わたしたちの主、イエス・キリストの神であり、父である方」と、讃えさせて下さるように、と祈っています。然も、「互いに、同じ思いを抱かせた上で」との祈りです。

それは、具体的には、「肉を食べても良いと確信している、異邦人キリスト者」と、「肉を食べず、食べている者たちを審いているユダヤ人キリスト者」の両者が、互いに同じ思いになることなのです。そして、その為には、「キリスト・イエスに倣って、隣り人を喜ばせること」が必要である、と、パウロは勧めています。

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