主の愛に満たされて
大坪章美
ルカによる福音書 13 章 22-29 節
ある人が、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と、イエス様に尋ねたと言うのです。そして、この問いは、イエス様を喜ばせるようなものではありませんでした。このように、質問する人は、実際には、「自分だけは、別である」という、「信仰的な思い上がり」の気持ちがあるのです。イエス様は、問いかけた人を含む、一同の者に、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われました。ここには、イエス様に質問した人の、“考え違い”への、厳しい批判が込められています。救いは、全面的に、神に委ねなければならない事であるのに、その決定を、信仰者が自分勝手に出来るように考えている事への、指摘なのです。
人が救われるかどうか、は、人間のあずかり知るところではない、と仰っているのです。「神の国への戸口は狭い」事を示しておられます。この戸口を、自分の力で無理に通り抜ける事は、できるものではありません。「神に招き入れられる」事によるしか方法は無いのです。救われる為にくぐらなければならない戸口の狭さは、どれ程のものでしょうか。それは、「罪を持ったままでは、決して入ることの出来ない狭さ」です。洗礼を授けられ、罪を贖われた人でも、その後、いい加減な生活をしている人は、再び罪を犯しているのです。
イエス様は、「本当に神の国に入る気があるのか」と問われるのです。洗礼を受けるにしても、救いに入れられるにしても、「信仰の決断」を、神は求めておられるのです。そこには、後の祭りにならないように、神から与えられている、悔い改めの残された時を用いなければならない事が語られています。神の国の戸口が閉じられてしまう前に、入らなければならないのです。
悔い改めの残された時を無為に過ごす間に、その期限は突然やって来ます。イエス様の招きに対して、「未だ、このままで良い。今でなくても良い」などと考えている内に、神の国の戸が、閉められてしまうかも知れないのです。いざ、戸が閉まってしまってから、泣き叫んで、主に、「ご主人様、開けて下さい」と、頼んでも、もう遅いのです。
イエス様は、このような時に、私達がどういう言い訳をするか、良くご存知です。「その時、あなたがたは、『ご一緒に、食べたり飲んだりしましたし、また、私達の広場で、教えを受けたのです』と言い出すであろう」と、仰って、先手を打たれました。今の、私達のケースで申しますと、「イエス様、わたしたちは欠かさず礼拝に出席し、祈祷会にも、その他の集会にも積極的に参加しました。聖餐式にも与り、奉仕もし、献金もしました。主よ、この私を、知らない、などとは、仰いませんよね」という風な主張になると思われます。
イエス様は、この人々に、「不義を行う者ども。皆、私から立ち去れ」と言われました。茲で言われる、「不義を行う者ども」も、外面的には信仰者のようであり乍ら、内面では罪を犯している不信仰な者達の事です。
神の恵みを一杯に受け、神の愛の中にいる私達が隣り人を傷つけるような思いを持ったり、そのような言葉を口にするとしたら、それこそ自己中心的な生き方であると、断罪されても仕方がない事でありましょう。
わたしたちには、未だ、古い自我が残っています。自分の内に残っている古い自我、それが、“自己中心的な生き方”です。神の国に入るには、古い自我と戦い、勝利しなければなりません。その戦いは、毎日、絶えず起こるものです。そして、戦う人には、聖霊が味方して、勝利させて下さいます。
この戦いに勝利する人達の姿を、イエス様は29節で垣間見させて下さいます。「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と仰っています。古い自我との戦いに勝利して、隣り人の喜びを自分の喜びと考える事が出来る人、そのような人の為に天の国の狭い戸口は開かれるのです。
その時、私たちは神の愛に満たされ、古い自我との戦いに勝利し、隣り人の喜びを我が喜びとして、神の国への戸口をくぐり、イエス様が用意された宴席に連なる者となるのです。